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忠臣蔵 花の巻雪の巻

2,031 バイト追加, 2024年4月21日 (日)
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 音楽が伊福部昭なんで、討ち入りの時「ゴジラ」と「海底軍艦」を混ぜたような曲が流れるのがおもしろい。<small>(註05)(註02)</small>
 変わったアプローチがいくつもあるのも特徴で、まずオープニングからしてお公家さんたちの下向途中の'''宿'''、という独特な変化球<small>(註02)(註03)</small>。プロローグを宿屋の主人のモリシゲにまかせて良い掴み。
 その他にも、あまりほかの映画では描かれないシーンがいくつか(赤穂城開城にあたって、戦争になるかもと恐れをなして逃げる民衆のモブシーンなど<small>(註03)(註04)</small>)あってすごく個性的。
 [[萱野三平]](中村吉右衛門2nd)の最後や「大石東下り」、[[高田郡兵衛]]や[[寺坂吉右衛門]]の人生などにオリジナルアレンジが加わってるが、これは賛否両論だろうなあ。東宝の持ち味を出すにはこうしたアレンジがよかったのかなあ。あたしは定石通りやってほしかったっす。<small>(註04)(註05)</small>
 浅野内匠頭の武士の一分と[[吉良上野介]]の言い分がまことにわかりやすい。東映の橋蔵の内匠頭が孤立無援でイジメに耐えていてすごくかわいそうだったのに対し、'''若大将は超ナマイキ'''なので、喧嘩っぽさが増長され、刃傷までの行程が自然。同輩の[[伊達左京亮|伊達]]くんが同情してくれてたりするのもいい。人間関係に無理が無く、サムライ言葉も極力現代語にしてる感じで21世紀の人間が見ても共感しやすい。
 コミカルな要素もちゃんと入ってるところもエンターテインメントの基本をクリア。スタイリッシュというか都会的と言うか絵柄が清々しくどことなくのびのびしていて品がある。( 人気お笑い俳優ユニット、脱線トリオが出ているが、ちょうど八波むと志が由利徹と仲をたがえたあとで場面が別。) コミカルな要素もちゃんと入ってるところもエンターテインメントの基本をクリア。スタイリッシュというか都会的と言うか絵柄が清々しくどことなくのびのびしていて品がある。(人気お笑い俳優ユニット、脱線トリオが出ているが、ちょうど八波むと志が由利徹と仲をたがえたあとで場面が別。)
 撞木町で遊びほうける内蔵助のシーンも独特。他作品なら、なにかっつうと「う〜き〜さ〜ま〜、こ〜ち〜ら」って鬼ごっこ(めくら鬼)しかやらない遊興シークエンスを、幇間の三木のり平の踊りや、モノボケ(アイテムを使っての一発芸「見立て」)で色取り、退屈しないのであります。
-----== 註釈 ==[[画像:scenario.jpg|thumb|シナリオ決定稿]]
註01…ちなみにこのへんの配役については古い週刊文春にあるのだが、藤田進、小林桂樹などがこぞってやりたがった役が、有島一郎のやった[[多門伝八郎]]だったという。有島の多門は監督の推しだったそうだが、やりたがってる役者がいるならやらせてあげて、個人的には有島一郎あたりには[[堀部弥兵衛]]をやって欲しかった。(ちなみに有島はのちに[[大忠臣蔵(NET)|ミフネ版「ミフネ版」]]で弥兵衛を演じる。)や「[[元禄太平記]]」で弥兵衛を演じる。)
 本作で[[堀部弥兵衛]]を演じている小杉義男は黒澤映画にも本多猪四郎作品にもご常連のベテランなのだが、大部屋さんの印象があり、東映では薄田研二さんがやってる役どころを、名バイプレイヤーの小杉さん(好きだけど)…というのは、もりいが忠臣蔵ビギナーだった頃からの違和感。ふだん東宝映画に貢献している東野英治郎や左卜全が出演していないが、彼らあたりでどうにかならなかったのだろうか?(こういうことでで悩むのが、好き)  …<附言>ただ、小杉さんは、同じく東宝の「を演じている小杉義男は黒澤映画にも本多猪四郎作品にもご常連のベテランなのだが、大部屋さんの印象があり、東映では薄田研二さんがやってる役どころを、名バイプレイヤーの小杉さん(好きだけど)…というのは、もりいが忠臣蔵ビギナーだった頃からの違和感。有島が無理ならふだん東宝映画に貢献している東野英治郎や左卜全が出演していないが、彼らあたりでどうにかならなかったのだろうか?(こういうことでで悩むのが、好き)  …<附言>ただ、小杉さんは、同じく東宝の「[[四十八人目の男]]」で、[[堀部安兵衛|安兵衛]]を演じてることを思うと、父子両方を演じためずらしい役者になる。
 「そこはやっぱ三船でしょう。若いったってねえ、翌年に『赤ひげ』撮ってるんだし(公開は延びて'65に)」と春日太一さんとご一緒したときおっしゃってた。ちなみに氏のごひいきは「[[赤穂浪士 天の巻・地の巻]]('56)」。(この「花の巻雪の巻」は「雑」と言ってた笑。何シーンか討ち入りが昼間だし、東宝歌舞伎のことがあってしょうがないけど白鸚キャスティングにも一過言。)」。(この「花の巻雪の巻」は「雑」と言ってた笑。何シーンか討ち入りが昼間だし、東宝歌舞伎のことがあってしょうがないけど白鸚キャスティングにも一家言。)
 ちなみに東宝娯楽映画といえばクレージーキャッツの映画シリーズも忘れてならないが、1本目の「ニッポン無責任時代」が本作と公開年が同じで、その後人気シリーズとして屋台骨を支えるものの、この時点では東宝映画への貢献は無いのでクレージーのメンバーの出演はない。数カ月後に本作の公開が控えてるので宣伝を意識してか、「ニッポン無責任時代」には「忠臣蔵」というワードが数回出てくる。
註02,03…オープニングが勅使下向だとか、モブシーンとかは8年前の「註02…・Wikipediaでは、劇伴にゴジラのテーマのモジリがあると、わざわざ説明しているが、ほんのちょっぴりフレーズがかぶる箇所があるだけ。ほかの伊福部作品の似た部分には触れてない。そんなこと言ったら本作のBGMなんて東映映画「徳川家康」('65)のメインテーマ曲にモジリでもなんでもなく、'''ほぼ'''まんまのメロディが使われてるのがありますし、伊福部昭先生は使い回しは日常なのであります。(そもそもゴジラのテーマは喜劇映画「社長と女店員」('49)のテーマ曲である)(ジョン・ウィリアムズでさえ「大地震」と「タワーリング・インフェルノ」で同じフレーズを使いまわしておりますし。劇伴ってそういうもんなのでしょう。)   註03,04…オープニングが勅使下向だとか、モブシーンとかは8年前の「[[忠臣蔵 花の巻・雪の巻 (松竹)]]」でも、あるっちゃあ、ある。
それにしてもまったく同じ題名でこの映画の公開前年に松竹から東宝に移籍した白鴎を内蔵助に立てて、特徴的なシーンまでかぶるというのは、なにかしら挑戦的なキナ臭さを感じる。
註04…最初の記述から8年ほど経って、あらためて観ますと、高田の結末と本筋とのカラミが実にみごとで、そのあとのシーンとの流れもうまく機能していて、いまは好き。
「大石東下り」は未だに気になる上に、あるシーンで大幅に削除されたことが伺える。註05…最初の記述から数年経って、あらためて観ますと、[[高田郡兵衛|高田]]の結末と本筋とのカラミが実にみごとで、そのあとのシーンとの流れもうまく機能していて、いまは好き。 ただ「大石東下り」は未だに気になる上に、よく見ると削除されたシーンがあるんじゃないか?。などと思ったりもした。そういう部分も違和感を生んでるんじゃないかと。 大石内蔵助は、[[垣見五郎兵衛]]でも[[立花左近]]でもない、尾花光忠という、聴いたこともない人物の名(個人の感想です)を語って東下りをするのだが、そこに本物の尾花光忠が現れて「いつもの」パターンになるのではなく、宿屋に尾花と面識のある地元の役人が会いに来る。これを宿屋の主人である森繁久彌演じる主人(以下モリシゲ)が間に入って、大石に会わせまいとするのだが、その手管(先年に宿泊した院使にお小遣いを工面した際に礼にもらったサインを役人に見せて有無を言わせない)と、大石をかばおうとする根拠が伝わってこず、ラフプレーに見えてちょっと弱い。 まんまとごまかされて宿屋をあとにする役人だが、その際になぜかみな、酔っ払っている。おそらく、たらふくごちそうをされて煙に巻かれたのだろうと予想できるが、そのシーンが無いのだ。 こうした「削除されたのかな?」と思わせるシチュエーションはほかにも、たとえば[[堀部安兵衛]]が[[俵星玄蕃]]と飲んでて赤穂浪人の悪口を言ったであるとか、台詞ベースだけで存在しないシーンがいくつかある。 ところが、当時のシナリオの決定稿を取り寄せて確認してみると、あにはからんや「宿屋(脚本では”本陣"としてある)の主人にまんまとごまかされる役人」たちがごちそうされるシーンはもともと存在せず、ト書きに「荒賀たち役人、出て行く。少し酒が入っているらしい。」とあるだけ。ついでに言うと、自分を親の仇と付け狙う若者の名前を[[萱野三平]]がなぜ知りえたのかとか、先述の[[堀部安兵衛|安兵衛]]が[[俵星玄蕃|玄蕃]]に言う「赤穂浪人の悪口をほざいた」というシーンも、カットされたのではなくそもそも脚本に無い。短いシチュエーションやセリフから「推して知れ」ということだった。(昭和の映画っぽいなー) で、じつは、モリシゲが役人を煙に巻いたあと女房と二人でいるシーンが脚本ではもう少しやり取りが長く、内蔵助に白紙を見せられたときの斟酌や決心。自分が正しいことをしたという気持ちを女房に打ち明けている。 「白紙(しらかみ)の目録を見せられたとき、わたしはピン!ときたんだ。大石さまは、日本中の人間が思わずそうだ!と手を叩くようなことをしようとしておられるのだ。はっきりそんな気がしたんだ」 役人を騙すという暴挙に出た理由をしっかり吐露させているのである。あとで役人に嘘がバレて咎められ、本陣が休業に追い込まれるかもしれないリスクも承知の上で、ちょっとメシア症候群みたいに突っ走り、女房が妊娠してることに希望を託して自我を保っているシーンがちゃんと用意されている。それなら納得だ。
大石内蔵助は、[[垣見五郎兵衛]]でも[[立花左近]]でもない、尾花光忠という、忠臣蔵ファンには聴いたこともない人物の名を語って東下りをするのだが、本物の尾花光忠が現れて「いつもの」パターンになるのではなく、尾花と面識のある地元の役人が会いに来る。これを宿屋の主人であるモリシゲが間に入って、大石に会わせまいとするのだが、その手管(実際にご覧になってご確認ください)と、大石をかばおうとする根拠が、ちょっと弱い。(やはり、「大石東下り」は、似た風格の武士ふたりの短い対決が見もののシーンなのであります。)もっと言うとモリシゲと淡路恵子の本陣のシークエンスは、シナリオ上ではラストも飾っている。
まんまとごまかされて宿屋をあとにする役人だが、その際になぜかみな、酔っ払っている。おそらく、たらふくごちそうをされて煙に巻かれたのだろうと予想できるが、そのシーンが無い<small>(後述)</small>。夫婦は雲水(行脚の僧)となった[[寺坂吉右衛門]](生きてた!但馬に向かう途中なのである。)を見送ったあと、生まれた赤ん坊に「お前の代になったら、この話は大きな声で話せるようになるぞ」と語りかけている。
そればかりではなく、本作には「あ、この後、なんかあったな」と想像させる、役者がセリフを言おうと息を呑んだところでカットになるシーンも少なくなく、逆に、たとえば安兵衛が玄蕃を酔い潰そうとしたであるとか、そのとき赤穂浪人の悪口を言ったであるとか、セリフだけでは不自然な、「この前になんかあったな?」と思わせるシーンもある。南部坂の三次浅野家屋敷内には侍女に藤山陽子がいるが、いるだけでセリフが無いし(ま、この人は黙ってたほうがいいのかも…w)。適度なランニングタイムにするために相当な削除がなされていると想像できる。シナリオでは序盤…中盤…終盤と、定期的に大衆代表のモリシゲ夫婦が出てくることで時間の経過、または赤穂事件が後世にまで語り継がれる未来について言及して、作品全体を柔らかくまとめる有益な役割がかなり重たく働いているのに、中盤を一部削除してラストをまるまるカットすることで、ひじょうに中途半端な…それどころか違和感まで残すクオリティになってしまっている。あれば本作の個性が、より際立った気がする。
<附言>…2022年7月。国立映画アーカイブただ、このモリシゲのシーンは、2022年7月。国立映画アーカイブ(長瀬記念ホール ozu)の「東宝の90年 モダンと革新の映画史」で上映されたとき、ほかの観客(東宝映画やスターをこころえていて、金語楼や脱線トリオが出てくるだけで笑える世代)と一緒に見ていると、このシーンの印象はかなり違った。「森繁が"東下りみたいなことをしている"」ということで用意されたシチュエーションを観客は素直に受け入れ、忠臣蔵的な理屈を超越したなにかが場内で成立していた。これはお茶の間でDVDで見ているだけでは見つからない機能である。(あと、旭堂南湖先生の「大石東下り」に近衛関白の直筆、というものが権威あるアイテムとして登場してたんで、この映画のシチュエーションもあながち「設定が甘い」などと言えないのかも)の「東宝の90年 モダンと革新の映画史」で上映されたとき、ほかのおおぜいの観客(東宝映画やスターをこころえていて、金語楼や脱線トリオが出てくるだけで笑える世代)と一緒に見ていると、印象がかなり違った。
当時のシナリオの決定稿を取り寄せて確認してみると、あにはからんや「宿屋の主人にまんまとごまかされる役人」たちがごちそうされるシーンはもともと無く、ト書きに「荒賀たち役人、出て行く。少し酒が入っているらしい。」とあるだけ。(ほかにも、自分を親の仇と付け狙う若者の名前を三平がなぜ知ってたかとか、安兵衛が玄蕃に言う「赤穂浪人の悪口をほざいた」というシーンも、カットされたのではなくそもそも脚本に無い。短いシチュエーションやセリフから「推して知れ」ということだった。)それよりも、モリシゲが役人を煙に巻いたあと女房と二人でいるシーンは脚本ではもう少しやり取りがあって、内蔵助に白紙を見せられたときの真意や決心。自分が正しいことをしたという気持ちを吐露している。「モリシゲが"東下りみたいなことをしている"」ということで用意されたシチュエーションを映画館では観客はすんなり受け入れ、理屈を超越したなにかが場内で成立しているのだ。これはお茶の間でDVDで見ているだけでは見つからない効果である。
ちなみに、劇場の大スクリーンで見ていると、萱野三平のシークエンスのすべてが、泣けた。そうした、役者の存在感にまかせて削除シーンをカバーする手法もアリと言えばアリなのだろうが、今回のように、映画全体の印象を変える編集は、脚本家やモリシゲにとっては残念なことではなかっただろうか。
<付言>ちなみに、モリシゲが院使の書いたサインを見せて役人を騙すシーンをディスりましたが、旭堂南湖先生の講談「大石東下り」に近衛関白の直筆、というものが権威あるアイテムとして登場してたんで、この映画のシチュエーションもあながち「設定が弱い」などと言いきれない。
註05…・Wikipediaでは、劇伴にゴジラのテーマのモジリがあると、わざわざ説明しているが、ほんのちょっぴりフレーズがかぶる箇所があるだけ。ほかの伊福部作品の似た部分には触れてない。そんなこと言ったら本作のBGMなんて東映映画「徳川家康」('65)のメインテーマ曲にモジリでもなんでもなく、'''ほぼ'''まんまのメロディが使われてるのがありますし、伊福部昭先生は使い回しは日常なのであります。(そもそもゴジラのテーマは喜劇映画「社長と女店員」('49)のテーマ曲である)(ジョン・ウィリアムズでさえ「大地震」と「タワーリング・インフェルノ」で同じフレーズを使いまわしておりますし。劇伴ってそういうもんなのでしょう。)