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元禄忠臣蔵 前篇・後篇

613 バイト追加, 2021年6月18日 (金) 14:47
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本作品では忠臣蔵でおなじみのシチュエーションが、ほかの作品では見られない場面表現で工夫され、一風変わってひじょうに斬新。カメラワークや構図、演出も「へー」と思うところもあり、おとなっぽい監督が撮ってるなあとも思っていたら、巨匠溝口健二のブレイク前(ですか?)の作品だった。本作品では忠臣蔵でおなじみのシチュエーションが、ほかの作品では見られない場面表現で工夫され、一風変わってひじょうに斬新。カメラワークや構図、演出も「へー」と思うところもあり<small>※03</small>、おとなっぽい監督が撮ってるなあとも思っていたら、巨匠溝口健二のブレイク前(ですか?)の作品だった。
ただ、その「見せ方の工夫」はおもに前編に偏ってございまして、後編は「御浜御殿」「南部坂」「大石最後の一日」と原作通り続き、話が進むにつれてどんどんと画面の動きが無くなっていく。
「仇討ち」という殺伐としたストーリーをロマンスで締めくくるという、つやっぽい原作は非常に品があってよろしい。しかしこんなにまで「映画的」な演出を避け、淡々と撮ることに徹することに当時の観客は喜んだだろうか??どうも制作意図が読めない。
じつは監督はイヤイヤ「忠臣蔵」という課題に取りかかってる気さえする<small>※03※04</small>。だって討ち入りシーンを台詞で処理するなんて前代未聞だもの。
※01…「[http://www.jmdb.ne.jp/ 日本映画データベース]」によるとそういうことになってるが当時、美術を担当した進藤兼人の回顧によると封切りは12月14日であり、8日の真珠湾攻撃のあとでちまたは映画どころではなかったらしく封切り時の「客はまばらだった」としてある。」によるとそういうことになってるが当時、美術を担当した進藤兼人の回顧によると封切りは12月14日であり、8日の真珠湾攻撃のあとでちまたは映画どころではなかったらしく封切り時の「客はまばらだった」としてある。折も折だったが、スター不在の討ち入りのない本作は興行的にはもうひとつだったと、佐藤忠夫氏は言っている。(両コメント共に、キネマ旬報No/1145)
※02…リアリズム作家・溝口監督とスタッフのこだわりで実際の江戸城の図面からリアルに実寸の松の廊下が(映画1本撮れそうな巨費を投じて)再現されたという。
※03…忠臣蔵友達からうかがってあとで知ったのだが、本作はやはり、戦意高揚映画を撮らなければいけない時代に監督は芸術家として納得できず、遂にネタとして妥協できたのが本作だったそうである。※03…「西洋絵がクローズアップによる一点の凝視と焦点化に重きをおいてるのに対し、日本絵画は「全体的画面構成」によるロングショットを基調とし、同じ画面の中に複数の中心を持ち込んでいる」と言い、「洛中洛外図」を理想の構図としていたとか。(「日本映画史100年」) ※04…忠臣蔵友達からうかがってあとで知ったのだが、本作はやはり、戦意高揚映画を撮らなければいけない時代に監督は芸術家として納得できず、遂にネタとして妥協できたのが本作だったそうである。
「忠義と復讐と玉砕精神の賛美であるし、原作者の真山青果は大石内蔵助の朝廷への熱い忠誠心のために苦悩していたというエピソードまで付け加えている」(映画『元禄忠臣蔵』パンフレットより)

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