差分

提供: Kusupedia
移動先: 案内検索

大石内蔵助

25 バイト追加, 2009年12月22日 (火) 01:34
編集の要約なし
元禄14年3月18日23時頃(ほんとは19日午前5時頃?)、内蔵助の屋敷に早駕籠が江戸から宙を飛んできた。乗っていたのは[[早水藤左衛門]]と[[萱野三平]]。彼らが持ってきたのは江戸城中で[[浅野内匠頭|殿様]]が傷害事件を起こしてしまったというニュース。その後続報を[[原惣右衛門]]と[[大石瀬左衛門]]が持ってきて、とにかくだしぬけに'''殿様切腹、家は断絶、殿様の[[吉良上野介|ケンカの相手]]はおとがめナシ'''と聞いて、城は悲憤慷慨。
内蔵助はまず退職金を藩士達に分配。ここで不忠者は抜けた。内蔵助、去る者は追わず。最後の評定の時は士分だけで536人いたのがたった56人になっていた内蔵助はまず退職金を藩士達に分配。ここで不忠者はカネを持って抜けた。内蔵助、去る者は追わず。最後の評定の時は士分だけで536人いたのがたった56人になっていた(この数字、講談の数字ですのでフィクションです)。ここで内蔵助は初めて復讐のことを申し出た。
起請文をしたため、一同これに血判の上赤穂城を明け渡した。
山科での内蔵助は高利貸しをしたり伏見、墨染、撞木町で太夫、幇間に取り巻かれ遊興三昧をした。周囲は彼のそんな姿を見て「犬侍ちくしょう武士」とあだ名し侮蔑。しまいに内蔵助は「遊女を身請けするから」と言って妻の[[大石りく|よし]]を離別し実家に返す。'''しかしこれは敵を欺く計略'''だったのであります。
その後二条寺町のほとり、二文字屋の[[可留|お軽]]という娘を妾にする。[[千坂兵部]]が放った吉良上杉の間者も「妾まで置くようではもう大丈夫」と安心した。敵の目をあざむくと同時に江戸にいる仲間達、特に急進派の[[堀部安兵衛]]たちをもいきりたたせた。
11月に一度江戸下向して安兵衛たちと会い、暫定的に「殿の命日3月に決行」と取り決める。(江戸会議)

案内メニュー