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元禄忠臣蔵 前篇・後篇

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元禄ヘアスタイルがリアル。(<なんて書いてたら、それどころか本作は武家建築考証、民家考証。風俗考証、史実考証まで一流の先生にアドバイスしてもらってるとか)
 
 
 
製作総指揮:白井信太郎/脚色:原健一郎 依田義賢/監督:溝口健二
== 注釈 註釈 ==
註01…「[http://www.jmdb.ne.jp/ 日本映画データベース]」によるとそういうことになってるが当時、美術を担当した進藤兼人の回顧によると封切りは12月14日であり、8日の真珠湾攻撃のあとでちまたは映画どころではなかったらしく封切り時の「客はまばらだった」としてある。<small>(キネマ旬報No.1145)</small>(←加筆:前篇が12月公開で、後篇が翌年2月公開。映画どころじゃない感じとはいえ、日本軍のグイグイ時期ではある。)
折も折だったが、スター不在&討ち入りのない本作は興行的にはもうひとつだったと、佐藤忠夫氏は言っている。討ち入りのない本作は興行的にはもうひとつだった。<small>(キネマ旬報No.1145/日本の映画史(3)p56 岩波書店)p56佐藤忠男 岩波書店/「日本映画発達史 3」田中純一郎 中央公論社)</small>
鉄砲洲屋敷の裏門、赤穂城武器庫や二の丸、大石邸門前と玄関などなど、オープンセットも多い。<small>(「映画旬報」1941年11月21日号 映画出版社)</small>
 
「実寸主義で行く」と言った監督のコトバを受けて、当時美術の新藤兼人は武家建築考証の大熊喜邦博士の家まで赴き、博士所有の松の廊下の原寸図を写し帰ったそうである。大道具はソレをすんなり受け取り、松竹御用の建築屋が入り、膨大な材木と人員で作ったという。<small>(「元禄忠臣蔵」再映時のパンフレットより 1978年)</small>
これは国が裕福であったと言うよりも、国威発揚のために"贅沢を許した"作品と言えるのではないか。(検閲が厳しいいっぽうで国策映画への予算応援は積極的だった?)
註04…忠臣蔵友達からうかがってあとで知ったのだが、本作はやはり、戦意高揚映画を撮らなければいけない時代に監督は芸術家として納得できず、遂にネタとして妥協できたのが本作だったそうである。註04…溝口監督は戦意高揚映画を撮らなければいけない時代に、軍の「協力しないなら松竹を潰す」…みたいな勢いを前に、社長命令によってしぶしぶ着手した。のちに溝口は「映画って無常命令的に撮らされるべきでない」「誰もやらないから、やりました」と概略そのようにコメントを残している。<small>(「日本映画発達史 3」田中純一郎 中央公論社)</small> 監督は芸術家として納得できず、ようやくネタとして妥協できたのが本作だったようだ。 その結果、パンフレットでは「忠義と復讐と玉砕精神の賛美であるし、原作者の真山青果は大石内蔵助の朝廷への熱い忠誠心のために苦悩していたというエピソードまで付け加えている」と、うたって、軍への体裁は整えている。 特に象徴的なのが「第二の使者」という一篇。 劇中、大石内蔵助が「赤穂城は無くなるけど、江戸での[[浅野内匠頭|殿様]]の凶行について京都のみかどが赤穂浅野を同情してくれてるらしい」という情報を聞いて「勿体なし」と、ハラハラ泣いちゃうのだが、これは原作にある青果の「皇国史観」であり、このシーンは日中戦争あたりでは感動され?戦後は猛烈な批判を浴びせられたらしい。<small>(季刊「歌舞伎」第二号 S.43)</small>
「忠義と復讐と玉砕精神の賛美であるし、原作者の真山青果は大石内蔵助の朝廷への熱い忠誠心のために苦悩していたというエピソードまで付け加えている」<small>(映画『元禄忠臣蔵』パンフレットより)</small>そもそも青果の原作自体が「國民精神総動員」の思想的影響を受けており、だからこそ、企画が通ったのだろう。
特に「第二の使者」という一篇が象徴的。「赤穂城は無くなるけど、江戸での[[浅野内匠頭|殿様]]の凶行について京都のみかどが赤穂浅野を同情してくれてるらしい」という情報を聞いて、大石内蔵助が「勿体なし」と泣いちゃう「青果の皇国史観」であり、日中戦争あたりでは感動され?戦後は猛烈な批判を浴びせられただが、「女性映画」で手腕を振るう溝口監督には、ついに「ブシドウ」がなんだかよくわからなかったようだと新藤兼人は言っている。<small>(季刊「歌舞伎」第二号 S.43)(「元禄忠臣蔵」再映時のパンフレットより 1978年)</small>シーンがある。溝口健二以前に、そもそも原作そのものが「國民精神総動員」の影響を受けているのではないか。