差分

元禄忠臣蔵 前篇・後篇

728 バイト追加, 2025年12月25日 (木) 22:49
編集の要約なし
鉄砲洲屋敷の裏門、赤穂城武器庫や二の丸、大石邸門前と玄関などなど、オープンセットも多い。<small>(「映画旬報」1941年11月21日号 映画出版社)</small>
 
「実寸主義で行く」と言った監督のコトバを受けて、当時美術の新藤兼人は武家建築考証の大熊喜邦博士の家まで赴き、博士所有の松の廊下の原寸図を写し帰ったそうである。大道具はソレをすんなり受け取り、松竹御用の建築屋が入り、膨大な材木と人員で作ったという。<small>(「元禄忠臣蔵」再映時のパンフレットより 1978年)</small>
これは国が裕福であったと言うよりも、国威発揚のために"贅沢を許した"作品と言えるのではないか。(検閲が厳しいいっぽうで国策映画への予算応援は積極的だった?)
そもそも青果の原作自体が「國民精神総動員」の思想的影響を受けており、だからこそ、企画が通ったのだろう。
 
だが、「女性映画」で手腕を振るう溝口監督には、ついに「ブシドウ」がなんだかよくわからなかったようだと新藤兼人は言っている。<small>(「元禄忠臣蔵」再映時のパンフレットより 1978年)</small>