堀部安兵衛
若いころ
越後(北陸のほう)に生まれ、名を中山安兵衛といった。
父・中山主膳は新発田藩につかえたが、同僚の梶田弥三右衛門にはめられて切腹する。15歳の安兵衛は仇討ちをする。
江戸に出てきて道場破りで宿賃稼ぎ(マネージャーは宿屋の主人)。
長屋住まいし始め、「ケンカ仲裁屋」をインディーズで開業。仲直りさせては酒をおごらせ飲んだくれる日々におじさんが時たま訪ねてきては説教をたれた。
ある朝、飲み友達の糊売りのばばあ・おくまが言付かってた手紙からおじさんの決闘を知り、裏の9尺(約3m)の高塀を飛び越え、ばばあのご飯を横取りしてテンションをあげ、八丁堀から高田馬場まで走って助太刀に駆けつける(でも遅刻)。おじさんは斬られるが18人(とも16人とも)やっつけて江戸中の大評判に。
大酒飲みであだ名は「けんか安」「赤鞘(あかざや)の安」「とむらい安」「呑んべえ安」「のんびり安」「グレ安」「ぐでんの安」「人斬り安」「ボロ安」「きちがい安兵衛」「ぐず安」(ひどいいわれよう)etc..。
ドラマでは畳屋、飲み屋、やくざ、ヨタカまで友達の、江戸町民の気の置けない人望の厚い愛嬌のあるキャラで描かれるのが基本。
子供からの人気もあり、のんだくれて道ばたで眠っていると子供たちが鼻の穴に指をつっこんで起こそうとする。そういう気のおけなさ。
赤穂藩就職
仇討ちの見物をしていた堀部弥兵衛の娘・ホリが自分の緋鹿の子の扱帯(ひがのこのしごきおび)を「たすきにどうぞ」と貸してあげた縁もあり、彼の腕っ節に惚れた弥兵衛はすっかり安兵衛を気に入り、八丁堀地蔵橋の長屋におもむく。
仇討ちの誉れは各方面にとどろいていたので、毎日いろんな藩からスカウトが(特に松平左京太夫さんところが、死んだおじさんの後釜にと)やってきたが、安兵衛は「別に大望があるんで」とかテキトーなことを言ってことごとく断っていた。
ある日弥兵衛が娘を連れてきたとき「大名の使者なら会わないが、婦人なら面会する」と言ったのが運のツキ。以降、連日の弥兵衛の「婿に来てはくださるまいか」という猛烈アピールを浴びることとなる。
「送ったしごきはすなわち結納のしるし。ご受納になった上はこの縁談はとうにご承知でござろう。♪高砂やこの裏船に帆を上げて〜」
唐突だし強引だし…。安兵衛は断るが弥兵衛は日参。「中山の姓を捨てることはかなわぬ身の上」と言うとしまいにゃ弥兵衛老「じゃあこっちが堀部姓を捨てて中山になってもいいから」とまで言いだし、最終的にはくどかれて養子となる。
晴れて内匠頭にお目通りの上、主従三世のお固めのお盃を賜りまして、めでたく就職。
浪士
赤穂城倒産後、吉良邸付近で八百安(やおやすでのうてはっぴゃくやす)という名で野菜を売り歩き情報収集。水菓子屋に化けて上杉家の上屋敷を探ったりもした。その後長江長衛門と名を変えて道場経営。
講談によっては安兵衛が有名人すぎて隠密行動にさわりがあるというので、漆を飲んで顔をブツブツにした上、小柄で顔を切り刻むであるとか、前歯を抜いて頭を丸めた上に顔に焼き小手を押しつけてから荒縄に砂をつけてこすって、もう顔だか鍛冶糞だかわかんなくしちゃったなんという暴挙に出る設定もある。映画にも「堀部安兵衛(日活)」では焼け火ばしを顔に当て、「血槍無双」では煮え湯を顔にかけるが、いずれもすさまじいですな。
長屋は浪士のたまり場で道場は討ち入り前の集合場所ということになってる(実際は蕎麦屋ではないようですな)。
江戸の名物男があの討ち入りメンバーだったってんで江戸っ子の間で大ニュースとなる。こどもの頃のお父さんの仇討ちを加えると、その後高田馬場、吉良邸討ち入りと、生涯に3回も仇討ちをやっちゃった。
武器は肥前忠吉。
享年34。
(奥田、ヤスベエ、高田で江戸急進派トリオ、江戸表の三士)
関連項目
関連作品
- 血煙高田馬場(日活)1928
- 堀部安兵衛(日活)1936
- 決闘高田の馬場1937
- 初祝二刀流「高田馬場前後」改題1944(日活)
- 中山安兵衛(新東宝)1951
- 酔いどれ二刀流(大映)1954
- 忠臣蔵1/47(フジテレビ)2001
- PARCO歌舞伎 決闘!高田馬場(松竹)〜三谷幸喜〜2006
- 堀部安兵衛(NHK)2007