11,938
回編集
差分
細
戦前は「女の子の物語」ばかり5本作っていた(要確認)宝塚映画が、戦後1951年に「日本のハリウッドとして関西の宝塚に名乗りを上げた新しいスタジオ宝塚映画製作所」戦後1951年に「日本のハリウッドとして関西の宝塚に名乗りを上げた新しいスタジオ宝塚映画製作所」<small>(「元祿水滸伝」プレスより)(「元祿水滸伝」プレスシートより)</small>を設立。第1回作品として本作を製作した。配給は東宝。<small>(註釈01)</small>
とにかく、本作は時代を反映した、プロテストソングっぽい物腰でありました。(加筆:「この作品はとにかく、本作は時代を反映した、プロテストフィルムと言っていい物腰でありました。(加筆:「この作品は"元禄"という世代への批判」であると堂々と「元祿水滸伝」プレスでうたっている。)という世代への批判」であると堂々と「元禄水滸伝」プレスでうたっている。)
また、バレれば死刑。軽くて沖縄で強制労働…というウワサさえあったとか。(実はCIE自体には権限はなかったが、指導された日本政府が過剰な面もあったようだ。)また、バレれば死刑。軽くて沖縄で強制労働…というウワサさえあったとか。(実はCIE自体には権限はなかったが、指導されて実働していた日本政府に過剰な面もあったようだ。)
編集の要約なし
{{Cinema|制作=宝塚映画|公開=1952|内蔵助=三津田健|星=2|頃=}}[[画像:genroku_sui_pos.jpg|thumb|公開当時のポスター]]
戦後初の忠臣蔵(たぶん)。
[[寺坂吉右衛門]]、[[毛利小平太]]、[[小山田庄左衛門]]という脱盟者ばかり3にんにスポットを当て、オリジナルの物語を彼らに与えている友情物語。
なにせ、検閲に引っかかれば最悪、ネガやプリントが没収されたり焼却されたりするので、映画人の中にはフィルムをこっそり隠したりしたヒトもいたという。
先述のデビッド・コンデは、接待でおべっかをつかわないと吉良上野介ばりの意地悪をしたとか。(彼は1947年に任を解かれて日本を去っている)<small>(「偽りの民主主義〜GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史〜」浜野保樹 角川書店)</small>
註釈01…戦前に前身の宝塚映画があるが、これは宝塚歌劇団の付帯事業だったとWikipediaにある。『瞼の戦場(40)』『南十字星 (41)』など何本か作っていた。<small>(日本映画データベース)</small>