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もりいくすお

478 バイト追加, 2016年2月24日 (水) 18:09
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テレビランドや小学四年生、五年生に投稿して絵を掲載してもらう印刷初体験もこのころ。同時に「おはようこどもショー」のコーナーでつボイノリオの背景に絵を採用された放送電波初体験もした。雑誌の「テレビランド」や「小学四年生」「小学五年生」に投稿して絵を掲載してもらう印刷初体験もこのころ。同時に「おはようこどもショー」のコーナーでつボイノリオの背景に絵を採用された放送電波初体験もした。
あまりに勉強しないので、親に漫画本のすべてを破棄されるがクオリティの高い手塚治虫(<ちなみに先生は「テレビや漫画ばかり見ていてあまりに勉強しないので、親に漫画本のすべてを破棄されるがクオリティの高い手塚治虫(<ちなみに先生は「'''[[わんわん忠臣蔵]]'''」原案を担当している)作品だけは父の情けで読んでいいというお赦しが出る。」原案を担当している)作品だけは父の情けで読んでいいというお赦しが出る。(当時俗悪とされたテレビ番組「8時だヨ!全員集合」「うわさのチャンネル」についても視聴禁令が敷かれた)
都バスで6年間、登下校の際、[[堀部安兵衛]]の自宅のあった牛込柳町を行き来した。
この学校は最寄りが早稲田駅であり、言うまでもなく'''[[堀部安兵衛]]の高田馬場の決闘'''の現場に近い。裏のの現場に近い。学校の裏にあたる'''月桂寺は講談で[[鳥居理右衛門]]が門前で槍術指南'''をした場所とされる。
先輩に、'''[[清閑寺熙定|清閑寺中納言]]'''を演じた上原謙や'''[[大石内蔵助]]'''その他を演じた[[丹波哲郎]]。'''[[間十次郎]]'''の子孫でアナウンサーの羽佐間正雄氏がいる。
このころ、ぴあに毎号似顔絵パロディイラストを読者投稿して掲載してもらうなどしていたが、高2のある日、縁あって「仮面ライダー」や「このころ、雑誌「ぴあ」に毎号似顔絵パロディイラストを読者投稿して掲載してもらうなどしていたが、高2のある日、縁あって「仮面ライダー」や「'''マンガ日本の歴史・忠臣蔵と生類憐み'''」で有名な石ノ森章太郎先生にマンガを見てもらい、とりあえず悪く言われなかったことですっかりその気になり絵描きの道を目指す。ちなみにその時の先生のアドバイスは「きみは噺家をめざしたほうがいいんじゃないか?」だった。 」で有名な石ノ森章太郎先生にマンガを見てもらい、とりあえず悪く言われなかったことですっかりその気になり絵描きの道を目指す。お礼に出かけた場所が国立演芸場の楽屋だったことも手伝ってか、ソワソワするもりいの様子を見たその時の先生のアドバイスは「きみは噺家をめざしたほうがいいんじゃないか?」だった。
デビュー当初は絵の具を使ったリアル絵を看板として、雑誌や広告にイラストを提供し、タカラトミーのプレステゲーム「ラーメン橋」のキャラデザインなどもした。デビュー当初はフランスのバンド・デシネに憧れたこともあってアクリル絵の具を使ったリアル絵を積極的にメインの仕事とし、雑誌や広告にイラストを提供し、タカラトミーのプレステゲーム「ラーメン橋」のキャラデザインなどもした。
その後パソコン時代到来と共にコラージュマンガ(漫画と写真を合成したフュメッティ)でフェチ漫画を意気揚々と制作(あちゃら「フェチャイライトゾーン」)。当時の地上波で放送中だった「トゥナイト2」「タモリ倶楽部」などでフェチコメンテーターとしてしばしば本人が電波にも乗った。
(この時点で、まだ忠臣蔵にはハマっていない)
2006年、翌年亥年の年賀状に'''[[通し狂言 仮名手本忠臣蔵|仮名手本忠臣蔵]]の五段目'''に出てくるイノシシを描こうとにわかに思いたち、友人に結婚のお祝いに似顔絵を描く代わりにと仮名手本忠臣蔵のDVDを無心。ここで初めて歌舞伎をじっくり見る(DVDだけど)。(結局年賀状は制作せず仕舞い。)に出てくるイノシシを描こうとにわかに思いたち、友人に結婚のお祝いに似顔絵を描く代わりにと仮名手本忠臣蔵のDVDを無心。ここで初めて歌舞伎をじっくり見る(DVDだけど)。(結局年賀状は制作せず仕舞い。)

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