もりいくすお

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2016.03月 国立演芸場楽屋にて

もりい くすお(男性、1965年11月23日 - )は、日本のイラストレーター。声優(?)。本名:同じ。WEBやテレビなどのメディア、書籍、雑誌等の印刷物、企業案件、店鋪、寺社仏閣などに絵を提供している。


桑沢デザイン研究所非常勤講師。赤穂観光大使(兵庫)。港区観光大使(東京)。忠臣蔵文化愛好画家(自称)。講談「赤穂義士伝」原理主義。忠臣蔵ソムリエ(自称)。グラニアック(もりいの造語。鉄道マニアを意味するtrainiacから)。忠バサダー(もりいの造語。忠臣蔵の良さを広めたい大使気分から)。

本サイトのオーナー。




忠臣蔵ゆかりな生い立ち/履歴

1975~6年。初めて印刷された。

<※以下のプロフィールは事実ですが、あくまで、本・忠臣蔵サイトの一部であり、かなりアブノーマルな構成になっていることをあらかじめご了解ください。なお忠臣蔵関連は太字になっておりますw。>


 東京都港区・東京慈恵会医科大学附属病院で生まれる。

 この病院は、討ち入りのあと堀部安兵衛大石主税不破数右衛門らが最初に落ち着いた愛宕下の伊予松山藩・松平隠岐守の上屋敷跡(しっかり古地図を見ると、じゃっかんズレてるが黙っていようっと!)。ちなみに堀部家菩提寺の青松寺の真っ正面。また畳替え事件の増上寺の近所であり、何度も浅野内匠頭大石内蔵助を演じた片岡千恵蔵の終焉の地でもあります。

(慈恵看護専門学校の前身、看護婦教育所は鹿鳴館バザーの収益で建てられたが、開催は新発田藩・溝口家12代藩主の娘から有栖川家に嫁いだ栄姫(はるひめ。結婚して董子…ただこ)さんによるものである。堀部安兵衛は溝口家から姓を分けてもらってる一族。父・中山弥次右衛門は藩士。)

 その後品川(勅使、院使を出迎えた地。そして「義士銘々伝」でブレイクした、現在の浪曲の形を作った桃中軒 雲右衛門の葬られてる地。またそのご近所の南品川には、堀部弥兵衛役者で有名な薄田研二さんがおすまいだった)で育つ。

 品川と言うと聞こえが良いが、最寄りは片岡源五右衛門を演じた郷ひろみ大石内蔵助を演じた真田広之の育った大井町である。

 ちなみに誕生日は不破数右衛門を演じた田中邦衛や綿引勝彦と同じ勤労感謝の日。元禄14年、江戸会議で内蔵助がみんなをなだめたあと、赤穂へ発った日。


 先祖は大石内蔵助の閑居があった京都の山科の近所の出だと勘違いしていた時期があったが(高祖母が木村荘平の愛妾だったから)、実際は相対替え前の赤穂浅野家下屋敷があった、伊達家のお屋敷があった麻布は仙台坂のそばのおっさんの子孫だった。

 父親は、麻布高校の出身で、間十次郎一家の子孫であるメディア界の重鎮・羽佐間重彰さんの後輩。2019年に私が赤穂義士祭でMCをご一緒させていただいた小日向えりさん(当時 歴ドル)出身の横浜国立大学を卒業した、秋葉原のデザイン会社の取締役。彼は、くすおが忠臣蔵にハマった元年、「いかにも史実であるかのように家柄の良い高家筆頭の吉良上野介を悪者に仕立て上げるのは気に入らん。ありゃあ 義士じゃねえんだよな。浪士なんだよな。」と、初回からガミガミとアンチな態度で改宗を迫った。

 いっぽう、母親のほうは泉岳寺そっくりの四十七義士の墓があり(興宗寺〜こうしゅうじ〜)、ベストセラー「元禄快挙録」の著者・福本日南の出身地でもある、福岡県(母は、寺坂吉右衛門の墓のある八女の近所の、久留米出身)の出身でありながら、「忠臣蔵」と聞いても「…はぁ、時代劇ね?」というくらいの、フリーの経理事務の人(息子の没頭に対するリアクションは、こちらを歓迎したい)。くすおはそういう家柄のもとに生まれた。


 物心ついた時からすでに絵を描くのが好きだったくすおは、幼稚園(「夕ニャン」浮橋太夫をやった工藤静香が編入&中退し、堀部安兵衛の妻・ホリを演じた深津絵里が卒業した、日本音楽高等学校の付属幼稚園)の頃から「モーレツア太郎」や「帰ってきたウルトラマン」を描いておともだちに喜ばれては、得意になっていた。

 小学校に上がるや、担任による「給食を全部食べなければ帰宅を許さない」という所謂「完食教育」の体罰が効いて、会食恐怖症となり、元来、ひとりっ子で独占欲が強く、食い意地が張ってるはずのもりいには、この症状は卒業するまで給食が苦痛でしかなかった(香りや味が良い思い出として残っていてもである)。

 いつスイッチが入るかわからないこのコンプレックス(「平らげなければいけない!」という強いプレッシャーを感じると、とたんに食べ物を飲み込めなくなる)には40歳を過ぎてもときどき苦しめられたが、忠臣蔵に目覚めた2008年、故・国本武春師匠におごってもらった成田の川豊本店のうな重を食べ残したのを最後に、なぜか(ようやく)すっかり克服できた。

 雑誌の「テレビランド」や「小学四年生」「小学五年生」に投稿して絵を掲載してもらう印刷初体験をする。同時期に「おはようこどもショー」のコーナーでつボイノリオの背景に絵を採用された放送電波初体験もした。(放送をした日本テレビは当時赤穂浪士が潜伏した麹町にあったが、現在、汐留の仙台藩芝口上屋敷跡にある。討ち入り後に赤穂浪士に粥を振る舞ったお屋敷である)

 テレビや漫画ばかり見ていてあまりに勉強しないので、罰として親に漫画本のすべてを破棄されるが、クオリティの高い手塚治虫(<ちなみに先生は「わんわん忠臣蔵」原案を担当している。手塚プロのある高田馬場は中山安兵衛の決闘で有名。晩年に「七色いんこ」という作品で忠臣蔵のパロディを扱ってらっしゃいました。)作品だけは、父の情けで読んでいいというお赦しが出る。(当時俗悪とされたテレビ番組「8時だヨ!全員集合」「うわさのチャンネル」についても視聴禁令が敷かれた)

 勉強のじゃまになったり、他人の机を落書きで汚したり、いかがわしい絵を描いたりという悪行に対してしばしばマンガ全般禁止令が出るが、今にして思えば抑圧はますます「描きたい」という情熱を奮い立たせた。


 小学生時代に、「ジョーズ」や「タワーリングインフェルノ」や「犬神家の一族」をきっかけとしてハマった映画鑑賞だったが、中学生になってから、深作欣二の「赤穂城断絶」に出会う。いわばもりいくすおが真っ正面から接した忠臣蔵ファーストコンタクトである。(でも、この時点ではまだ忠臣蔵にハマっていない)

 「赤穂城…」そのものに、特にハマりはしなかったが(面白いとは思った)、それよりも、この映画のパンフレットに、それまで公開された過去の忠臣蔵映画のスチルがたくさん載っており、これに釘付け。同じ題材でいにしえより、こんなにもいろんな作品がめんめんと作り続けられてるという、映画史に興奮した。間違いなくここで植え付けられたなにかが触媒され、本サイトを作る根源になっている。

 また、落語にハマったのも中学時代で、たとえば「中村仲蔵」を聴きながら、創作の魅力をあれこれ想像し、おはなしに出てくる定九郎ってどんなんだろうと思いをはせた。この頃を境に両親を「おとっつぁん」「おっかさん」と呼ぶようになる。

 アメリカの風刺雑誌MADと巡り会い、モート・ドラッカーの作風に憧れる。

 テレ東版の珍訳「ゾンビ」(いわゆるサスペリア版)に腹を立てて友人とアフレコしなおしたり、学園祭では16ミリフィルムでアニメ撮影&上映などして遊び、日替わりの特撮映画を見に定期券を買って有楽町の日劇まで「ゴジラ映画大全集」に日参するなど、オタクの一面もこの頃に育つ。(のちにアニメの脚本を多く手掛ける明大の学生当時の関島眞頼氏と毎日のように会ってるうちになつき、吉野家の牛丼をごちそうになって「この世にこんなうまいものがあるのか」と感激する。)  

 怪獣総進撃や「ゴジラ対メカゴジラ」をノートにコミカライズしたり、クラスメイトを登場させる巨大ヒーロー物や野球漫画を描いては回し読みしてもらってたが、人気に図に乗ってたらいつの間にかクラス全員から無視される羽目になり、猛省する。

 あまりにも勉強をしないため、母親がくすおをお祓い(東十条あたりの寺だったかな?)に連れて行ったこともあったが、もちろん改善されず、たまに頑張るとテストの成績は良かったので、勉強以外に楽しいことが多すぎてモチベーションが上がらないだけなんだなと自覚していた。


 中高一貫風だったので、そのまま新宿の成城高校に進学。

 とにかく都バスで6年間、登下校の際、堀部安兵衛の自宅のあった牛込柳町を行き来した。

 この学校は最寄りが早稲田駅であり、言うまでもなく堀部安兵衛の高田馬場の決闘の現場に近い。学校に隣接した瑞光寺さんは間十次郎ご一家の菩提寺で、学校の裏にあたる月桂寺は講談で鳥居理右衛門が門前で槍術指南をした場所とされる。

 学校の先輩に、清閑寺中納言を演じた上原謙や大石内蔵助その他を演じた丹波哲郎間十次郎の子孫でアナウンサーの羽佐間正雄氏がいる。

 日露戦争で活躍された乃木希典大将のお父さんは、現在のもりいの作業場から5分ほど行った長府藩毛利家に仕えていた藩士で、大将は藩邸内の長屋出身だそうだが、現在「六本木ヒルズ毛利庭園」のここは、赤穂義士終焉の地でもある。乃木大将は赤穂義士ファンであったので、毎月命日には息子さんの手を引いて泉岳寺にお参りに行ったというが、その息子さんたちも、もりいの高校の先輩である。

 このころ、雑誌「ぴあ」に毎号似顔絵パロディイラストを読者投稿して掲載してもらうなどしていたが、高2のある日、縁あって「仮面ライダー」や「マンガ日本の歴史・忠臣蔵と生類憐み」で有名な石ノ森章太郎先生にマンガを見てもらい、とりあえず悪く言われなかったことですっかりその気になり、絵描きの道を目指す。お礼に出かけた場所が国立演芸場の楽屋だったことも手伝ってか、ソワソワするもりいの様子を見たその時の先生のアドバイスは「きみは噺家をめざしたほうがいいんじゃないか?」だった。

 石ノ森先生との出会いで、絵で食べていこうと活路を見出し、東横線菊名の美大予備校に通い始める。

 自分の絵心に対する、周囲の褒めそやしが影響してか「どうにかなるだろう」と、たかをくくって、学業パフォーマンスを上げる努力を一切しなかったので、学科試験の多い美大受験は諦め(それでもタマビは受験して不合格。ムサビは願書を出し忘れた)、予備校の講師のすすめもあって、ハナから都心にあって通いやすい桑沢デザイン研究所(後述)に狙いを定めてデッサンや色彩構成の受験勉強に専念をした。


 高校卒業後は、渋谷の専門学校桑沢デザイン研究所(先輩に田村邸跡で切腹最中を売る新正堂さん社長夫婦)でグラフィックデザインを学ぶ。課題の多さにヘトヘトになり押しつぶされそうになると、浅草東宝に「クレージーキャッツ特集」をオールナイトで見に行っては正気をたもった。

 在学中に、刃傷事件のあった江戸城の、内匠頭が駕籠で出てった平川門の近所の小学館の漫画週刊誌からデビュー。

 卒業してすぐクレイアーティスト、スーパーマーケットマニア、IKEA博士の森井ユカとの共同生活を浅草で始める。

 新生活にあたって人並みに、結婚式と披露宴をしたが、場所は吉良邸の茶会の日をリークした羽倉斎ゆかりの地、神田明神であった。

 浅草は前原伊助倉橋伝助勝田新左衛門不破数右衛門武林唯七杉野十平次らが同盟の誓約を交わした場所で、義臣伝読切講釈「忠臣連理の鉢植~植木屋」の舞台で、仮名手本忠臣蔵などが公演される中村座がやってくる有名な東京の下町である。

 このころ(1980年代なかば)、ユカさんのバイト先の友人の彼氏の高校の同級生(ブルーグラスのバンド仲間)に、忠臣蔵がお家芸の国本武春師匠がおり、もりいは浪曲を知ることになる。


 3年ほどして菅谷半之丞の寓居していた谷中のそばに転居。しばらくいた。(台東区での営業は10年以上になった。)



イラストデビュー以降

2019.05月 羽佐間一家のご子孫。羽佐間省二さんの取持ちで高校の大先輩・羽佐間正雄氏と、かつてコサキンのラジオでモノマネを褒めてくださった声優・羽佐間道夫氏と。渋谷にて。


 友人に助けられながら、クライアントに謝りながら、それなりにイラストレーター生活を続け、たまにTBSラジオ「コサキンDEワァオ!」で広川太一郎さんのモノマネ(間十次郎の子孫の声優・羽佐間道夫さんおすみつき。とはいえ20年以上経って、お会いした時はコサキンにおいでになったことをお忘れでした。「小堺くんが"俺がハマーだ!"のファンなんだよね。」)を披露し、この出演をきっかけにその後も関根勤氏主宰のカンコンキンシアターのナレーションが30年以上続いている。

 ちなみに関根氏は高輪の育ちであり、小学生時代は義士祭になると煙まみれの泉岳寺に、お友達と「探検だ!」と言って出かけたという(ご本人談。お寺はご実家から徒歩7分)。

 余談だが、90年代初頭、もりいはイッセー尾形さんが好きすぎて、二子玉の事務所にちょくちょく遊びに行ったり、氏のドキュメンタリービデオを撮ったりしたが、いろいろあつかましかったせいで演出家・森田雄三氏の不興を買い、出禁となる。


 さて、イラストのデビュー当初は、フランスのバンド・デシネに憧れたこともあってアクリル絵の具を使ったリアル絵を積極的にメインの仕事とし、雑誌や広告にイラストを提供し(フロム・エー/ガテンなど)、タカラトミーのプレステゲーム「ラーメン橋」のキャラクターデザインなどもした。

 その後、パソコン時代到来と共にコラージュマンガ(漫画と写真を合成したフュメッティ)でフェチ漫画を意気揚々と制作(あちゃら「フェチャイライトゾーン」)。当時の地上波で放送中だった「トゥナイト2」「タモリ倶楽部」などでフェチコメンテーターとしてしばしば本人が電波にも乗った。このころ全身タイツ愛好家として関ジャニ∞の深夜番組「裏ジャニ」に出演し、のちに大石主税不破数右衛門をやる横山裕氏(&内博貴氏)と共演をしている。

 またその後、ルポ漫画を得意とした作家としてほうぼう出かけてはそれをマンガにすることが多くなる。(リクルートガテン「おしごと見聞録」/日刊ゲンダイ「見てきたマンマ」/三才ブックス裏ッ!「ピンポンダッシュ」/講談社モーニング「モーニング探検隊」など)

 そのまたあとは、テレビに似顔絵を納品するようになる(フジ「IQサプリ」「とんねるずのみなさんのおかげでした」など)。


 そうした20〜30代は、特に忠臣蔵を意識することもなく生きていたが、それでもなぜか年末の忠臣蔵映画を録画したり、大河ドラマの「元禄繚乱」を毎週録画したりしていた。(それでもまだ、この時点で忠臣蔵にハマっていない)

 ちなみに、1996年から始めたブログは現在まで、ほぼ毎日続いている。(リニュアルの関係で2008年から閲覧可能)>「くすお画主主義共和房」


 やがて2005年、40代になって、若き安兵衛が江戸に来て最初に住んだ、神崎与五郎が「美作屋善兵衛」を名乗って町民に化けていた、寺坂吉右衛門の墓のある、吉良上野介の下屋敷があり、愛人の家もあった、赤穂浅野家、藩祖の長友(忠臣蔵の浅野内匠頭のおじいさま)時代まで下屋敷があった、もりいの本籍地でもある、麻布に仕事場を引っ越し新装開店。(江戸城の鬼門から裏鬼門に引っ越したわけである)

 自宅も転宅したがそこはたまたま最初の江戸下向で大石が安兵衛と会談した、そして大石の命令で原惣右衛門らが作戦のために会合場所として屋敷を買った三田だった。ちなみにイタリア大使館大石主税堀部安兵衛終焉の地。伊予松山藩・松平隠岐守の中屋敷跡。)の目と鼻の先。

 この時点でも、まだ忠臣蔵にはハマっていないが、地の利とでも言うのだろうか、タイミングとしてはあきらかにこの引越がターニング・ポイントといえる。

2006年、翌年亥年の年賀状に仮名手本忠臣蔵の五段目に出てくるイノシシを描こうとにわかに思いたち、友人に結婚のお祝いに似顔絵を描く代わりにと仮名手本忠臣蔵のDVDを無心。ここで初めて歌舞伎をじっくり見る(DVDだけど)。(結局年賀状は制作せず仕舞い。)



忠臣蔵WEB開店から…

2008.09月 国本武春氏から借りたテープ。このほか講談本なども拝借。

 そして運命の2007年末、北王子欣也の「忠臣蔵」のCS放送を見ながらいつも混乱する「忠臣蔵」の登場人物のメモをつけ、鑑賞する作品をとっかえひっかえしながらメモを続けているうちに、どんどん被れていってしまった

 雑誌やテレビの似顔絵の仕事が多かったので、練習もかねて登場人物の役者絵を仕事の合間に描いていたら仕事中もオフも絵と向き合うこととなり、それが楽しいウォーミングアップになった。おかげでいつ仕事へのシフトしても筆が軽やかになり、気が進まない仕事が激減した。

 映画やドラマの登場人物の元ネタがどうやら古典にあると察し、20代から親交のあった国本武春に相談。自宅に押しかけ講談本やカセットテープを大量に借り、お勉強に興じる。


 そうして突然熱くなった忠臣蔵への思いから1年弱。遂に2008年、たまったメモと役者絵を素材にして本サイト公開に至る。

 ホームページの名前、くすやは討ち入りの前に四十七士が集まったそば屋の名前にちなんでつけました。自分の名前に似てたので。


 サイト公開と同時にライターの柏木珠希さんのお声がけがあって、珠希さん経営の長屋カフェ「さと和」さんにて役者絵展を開催。堀内道場のあった小石川で1ヶ月半お世話になった。

 サイト公開1周年の2009年10月、ネットアニメ「まんが超忠臣蔵」を発表した。(やがて2017年。アニメ監督・橘正紀氏がご覧になってアニメ「プリンセス・プリンシパル」におけるもりいのゲスト声優出演を決める。)

 もりいくすおがデザインで協力させていただいたグッズや菓子が播州赤穂や、東京新橋 田村邸跡で売られる。聖地でのグッズ販売は夢のよう。


 奇しくも、大石内蔵助の享年と同じ45歳の折、兵庫県赤穂市から「観光大使」を委嘱される。


 2012年。趣味で描いたAKB48忠臣蔵選抜の絵が「AKB48 リクエストアワー セットリストベスト100」のライブで採用。(テストまでやったが本番では進行が押して残念ながら流れずじまい。)

 2013年。忠臣蔵物語を布教するために早わかり忠臣蔵絵本をZINE(リトルプレス)でリリース。以来、ゆかりの地で売っていただいている。

 2014年。・イタリア大使館(旧・松平家跡)訪問。

     ・フランスでの義士絵の販売(以下に詳細)。

     ・久米宏さんや春風亭一之輔師匠のラジオ出演。

     ・テレビ3番組ほどの義士絵の提供。

 2015年。1年の審査の末ラインのスタンプ忠臣蔵~47samurai~が発売。(当時は審査が厳しく、松の大廊下でケガしてる吉良は「暴力的」。田村邸の内匠頭は正座してるだけなのに「自殺を誘発する」とリジェクトされた)

 使い勝手の悪さに急遽スピンオフ忠犬ちんべえを審査申請したら今度はたったの4日でリリースされた。

     ・前年に、フランスのパリ西部に位置するナント市にある歴史博物館の要請で、新正堂さんに提供した義士ようかんの絵(47葉。歌川国芳のアレンジ)を提供。博物館はそれを大判のシルクスクリーンで刷り直し、2セット作ったものを、同博物館で開催された「サムライ展」のために制作されたブックセットに入れて販売したが、2015年春にそのブックセットがめでたくLa Nuit Livre 2015 アート書籍部門においてグランプリを受賞。(完売後にプレ値が付いているとか。2019年館長談)

     ・夏 紀里谷和明監督のラスト・ナイツの広報活動に協力。

     ・12月 テレビデビュー。両国から泉岳寺までの道のりをご案内(テレビ東京「なないろ日和」)。

     ・港区さんの歴史フォーラムのために講演初登壇

 2016年。国立演芸場「忠臣蔵でござる 春宵特撰 ASANO meets HANGAN」にて春風亭一之輔師匠とトークライブ。

     ・10月 国立劇場開場50周年記念グッズ芝居廻り絵巻『仮名手本忠臣蔵』を高田紙器さんと開発&リリース。

     ・11月 ヨミウリ・オンラインさんにて作文「師走恒例「忠臣蔵」はオワコンにならない」

     ・12月 赤穂市立図書館にて個展「忠臣蔵イラスト展〜もりいくすおのおしごと披露〜」開催

 … etc. …


めでたし、めでたし。


Kusuo Morii (b. November 23, 1965) is a Japanese Illustrator and comics artist best known as a The producer of the encyclopedia of Chūshingura where is largest in this planet.

Chūshingura are fictionalized accounts in Japanese puppet show, theatre, and film that relate the historical incident involving the 47RONIN and their mission to avenge the death of their master, Asano Naganori.


< 蛇足 >

 ちなみに、座業ばかりで運動不足が続くもりいは数年おきに、看護士さんたちの人あたりの良い聖路加病院(鉄砲洲の浅野家お屋敷跡)で人間ドックをうけているが、たまに健康管理のためにウォーキングもする。片道20分の往復でスタスタ歩くが、折り返し地点は泉岳寺南部坂である。

 映画を見るときは、もっぱら徒歩圏内の毛利庭園(四家にお預けになったメンバーのナンバー3組が切腹した毛利邸跡)に隣接してる、六本木ヒルズヴァージンシネマズ六本木である。



おもな講演

この格好で参じます。


明治から平成という激動に、主だった映画界、演劇界は忠臣蔵ををどう表現してきたかを興行成績や内容の変遷とともに振り返る。

&紀里谷和明監督とトークショー。

(東京都港区 歴史フォーラム)


  • 「塩冶判官と浅野内匠頭に逢いたいでござる」2016

年末にやっていた忠臣蔵落語ライブの「春」版。

春風亭一之輔師匠のMCで、浅野内匠頭と塩冶判官の相違についてと、似顔絵でお送りする「こんな内匠頭はいやだ」ワースト3を、実際に演じた役者から選んで紹介するトークショー。

共演:春風亭一朝師匠、桂吉坊師匠らのライブ、故・国本武春師匠(映像)。

(国立演芸場 忠臣蔵でござる 春宵特撰 ASANO meets HANGAN)


個展のスピンオフ。もりいの絵本や、新発田の記念館に奉納した堀部安兵衛の一生、アニメなどの忠臣蔵の「絵仕事」の紹介と、忠臣蔵が時代とともにどう変化し、表現してきたかを振り返る。

(赤穂図書館 忠臣蔵イラスト展イベント)


お子さんたちに向けた、トークショー。お相手は忠臣蔵問屋「わたや」の矢野社長。

もりいの絵本の絵をもとに、名場面を紹介。

なにが魅力なのか、どのように日本人の美しさとして光っているのかをやさしく語る。

(赤穂 忠臣蔵ウイーク)


日本全国の忠臣蔵ゆかりの地の自治体のみなさんが集まる「忠臣蔵サミット」にて、もりいが出かけた際の各地の画像とともに、ほめそやしたり、そうでなかったりを観光客の目線から語る。

(広島県三次 第30回忠臣蔵サミット)


風評被害、炎上の元祖(?)、描きおろしイラストと共に吉良上野介の実像と虚像にせまり、近年のコンプライアンス上等の時代における、吉良上野介の「扱い方」に疑問を投げかけ、彼に悪役として徹底してもらうためのアイデアを語る。

(東京都港区 歴史フォーラム) リンク>「港区役所 港区歴史フォーラム「忠臣蔵」(加来耕三先生のあとに出てきます。)」


赤穂事件によって平穏な生活をとつじょ壊された「ふつう」の女性・大石りく。りくを演じた女優の描きおろし似顔絵とともに、りくさんのイメージを振り返り、元禄&令和のシングルマザー事情にせまる。

(兵庫県豊岡 大石りく生誕350年講演会)


  • 「ヤスベエをもっと知ろう 〜まんが「熱血!堀部安兵衛」を10倍面白く読む方法〜」2022

まんが「熱血 堀部安兵衛物語」発行者の武庸会さんによる催し。どれだけの愛を持って作業をしたかの検証とご報告。

(新潟県新発田 堀部安兵衛生誕350年講演会)



※その他、お寺さんでの講話や、NPO法人さんのイベント、忠臣蔵関連のMCなど、かけつけております。どうかお気軽にご相談ください。



ハマッたキッカケ

 子供の頃からぞっこんだったわけではなく、40過ぎて急にハマッた「グラ落ち」(<そんな言い方は、無いがw)について。


 2007年末、北大路欣也の「忠臣蔵」のCS放送を見ながら、これまで見る度に混乱していた「忠臣蔵」の大勢の登場人物をひとつ理解してやろうと思い立ち、相関図を書いた。

 すると別作品で同じ登場人物の役割が違ったりするので、観る作品ごとに微妙にストーリーの違う忠臣蔵の一体どれがオリジナルなのだろうと、さらに確認のために他のいろんな忠臣蔵を見漁りました。

 探りはじめると、ソレが大変な芸能(=エンターテインメントの各分野に幅広く忠臣蔵が存ること、それが250年以上、鬼のようなリメイクの量になってることなど)であることに圧倒され、クリエーターの腕比べが面白くて、すっかり魅力にとりつかれました。

 これが忠臣蔵観賞が趣味になる経緯です。


 とはいえ、最初に見た北大路欣也の「忠臣蔵」がとりたてて、ずばぬけた傑作だったわけではありません。その前年に初めて仮名手本忠臣蔵をDVDで見たのも衝撃だったし、それより以前に「元禄繚乱」でそこそこハートを捕まれていましたし、さらに昔にも無意識に「忠臣蔵 花の巻雪の巻」の放送を録画していたりもしていました。完全にハマるまでの助走はありました。

 「がんばれ!ロボコン」「スタートレックシリーズ」「太陽にほえろ!」とかが子供の頃から好きで、登場人物が多いドラマにはハマりがちだったかもです。(とはいえ「水滸伝」は読んでない)

 正直申し上げますと、「この作品で感動したから」とかいう大きなキッカケは無いんです。

 こうした「きっかけバナシ」には往々にして「あとづけ」でエピソードを盛るものですが、TPOに合わせて以下をテキトーに答えるようにしております。


<好きになるキッカケエピソード1>

 因果因縁説。

 本籍は新発田城主・溝口信濃守(安兵衛のお父さん中山弥次右衛門が仕えた殿様)のお屋敷のあった南麻布。

 生まれたのが堀部家の菩提寺の真ん前。

 通ってた学校は安兵衛の自宅のあった牛込柳町の近所(若松町)で、自宅前を6年間バスで通り抜け続け、学校の最寄駅は安兵衛がおじさんの助太刀をした早稲田駅。

 仕事場は安兵衛が19歳で江戸に来て最初に住んだ麻布切通そば。

 自宅は堀部安兵衛終焉の地の近所です。

 生まれてはじめて個展をやらせていただいたのが、堀内道場のあった小石川

…という、ご縁。


<好きになるキッカケエピソード2>

 陰陽五行説(か?)。

 もりいがハマった2007年に不思議がある。

 その後2度と放送が無い(もしくはしばらく放送が無い)ような、レアな忠臣蔵作品が軒並みBSやCSで放送があったのがこの年(&2008年)なのである。

 作品はたとえば「四十八人目の男」「韋駄天数右衛門」「サラリーマン忠臣蔵(テレ朝版)」などがそうであるが、なにかのバイオリズムがクロスオーバーしたのか、各局が申し合わせたのか、不思議。

 もりいもその波動に巻き込まれたと思うと面白いです。



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