「ショウ マスト ゴー オン 幕をおろすな」の版間の差分

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さて、テレビ版のおはなしは劇中劇の「マクベス」をお茶の間向きに「忠臣蔵」に変えており、そのことがとりもなおさず、このコーナーで本作品を取り上げようと思ったキッカケでもあります。老役者をサポートというプロットを排除し、純粋に舞台裏で起こるアクシデントだけに的を絞って構成されている。舞台版とは相当違うストーリー。それでも相変わらず布石の置き方も上手ですし、お話は大変おもしろい。
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さて、テレビ版のおはなしは劇中劇の「マクベス」をお茶の間向きに「忠臣蔵」に変えており、そのことがとりもなおさず、このコーナーで本作品を取り上げようと思ったキッカケでもあります。老役者をバックアップするというプロットを排除し、純粋に舞台裏で起こるアクシデントだけに的を絞って構成されている。舞台版とは相当違うストーリー。それでも相変わらず布石の置き方も上手ですし、お話は大変おもしろい。
  
 
しかし、どうしたことかこのテレビ版、舞台版で感じられた満足感がチョット伝わってこない。というか、「え?この時間はナニ?」というようなもてあましたような時間が随所にちりばめられており、脚本と撮影の尺があってないかのごとき雰囲気。いったん気になり出すとカットのタイミングがいちいち遅くかんじる。まるで脚本を書き上げたあとに放送時間が変更になって伸びたんで各シーンを長めに編集した?というほどに間延びしていて、はたしてキャラクターたちが舞台裏で奔走したことはハプニングを解決したといえるのだろうか?と疑問が残るほど。特に最後は「アレ?テープ余った?」とテレビにつっこみたくなるシーンがダラダラ続く。
 
しかし、どうしたことかこのテレビ版、舞台版で感じられた満足感がチョット伝わってこない。というか、「え?この時間はナニ?」というようなもてあましたような時間が随所にちりばめられており、脚本と撮影の尺があってないかのごとき雰囲気。いったん気になり出すとカットのタイミングがいちいち遅くかんじる。まるで脚本を書き上げたあとに放送時間が変更になって伸びたんで各シーンを長めに編集した?というほどに間延びしていて、はたしてキャラクターたちが舞台裏で奔走したことはハプニングを解決したといえるのだろうか?と疑問が残るほど。特に最後は「アレ?テープ余った?」とテレビにつっこみたくなるシーンがダラダラ続く。
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あと、失敬な言い方なんですが、'''徹底的に美男美女が不在'''なんですね。そういうところで華がまったく無い上に、主役の西村雅彦が舞台版より遙かに物静かな陰険な役どころになってて、笑いが一切排除されてる。コレがまた独特なムードを作ってます。監督は三谷幸喜を理解できないっつうより、根本的に喜劇が撮れないのかもです。
 
あと、失敬な言い方なんですが、'''徹底的に美男美女が不在'''なんですね。そういうところで華がまったく無い上に、主役の西村雅彦が舞台版より遙かに物静かな陰険な役どころになってて、笑いが一切排除されてる。コレがまた独特なムードを作ってます。監督は三谷幸喜を理解できないっつうより、根本的に喜劇が撮れないのかもです。
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さて、劇中劇の忠臣蔵は「ブラボー忠臣蔵」というアバンギャルドなものにアレンジされてる設定なので、それがツッコミどころの免罪符になっており、もう自由でいいわけでして、忠臣蔵であって無いような感じになっておりました。
 
さて、劇中劇の忠臣蔵は「ブラボー忠臣蔵」というアバンギャルドなものにアレンジされてる設定なので、それがツッコミどころの免罪符になっており、もう自由でいいわけでして、忠臣蔵であって無いような感じになっておりました。
 
大好きな三谷幸喜が忠臣蔵を扱ったということがまずうれしいのでなんでもアリですわい。
 
大好きな三谷幸喜が忠臣蔵を扱ったということがまずうれしいのでなんでもアリですわい。

2008年10月17日 (金) 03:33時点における版

三谷幸喜、作、演出の喜劇。

初演が1991年のシモキタで、忠臣蔵が関連するのは翌年のテレビ版。深夜にフジテレビで放送されたそうです。その録画を見せていただきました。


お芝居の本番中にアクシデントが次々に起きて作品がめちゃめちゃになっていくのを現場の人間が四苦八苦してエンディングまでなんとか持って行くという、いわば三谷幸喜のお家芸の元祖みたいな作品。大泉洋は本作品を見て役者を目指したとか?


ストーリーは、命が危ない老役者の舞台をサポートすべく、裏方や共演者がてんやわんやする話で、付け焼き刃な対策が作家の意図しない方向へどんどんと作品を変えていく。

勝手に作品を変えられた作家が「どうして言ってくれないのかなー。言ってくれたら、ボク、自分で直したのになーっ」と悲痛に(そして滑稽に)叫ぶシーンは他人事とは思えませんでした。なにせテレビのオンエアを見たらCG屋さんが黙ってあたしの絵を描き変えてたなんてことが日常なので。


舞台版は1994年の紀伊國屋ホールのをニコ動で見たが、10年以上前の作品なのにすごく笑える。


さて、テレビ版のおはなしは劇中劇の「マクベス」をお茶の間向きに「忠臣蔵」に変えており、そのことがとりもなおさず、このコーナーで本作品を取り上げようと思ったキッカケでもあります。老役者をバックアップするというプロットを排除し、純粋に舞台裏で起こるアクシデントだけに的を絞って構成されている。舞台版とは相当違うストーリー。それでも相変わらず布石の置き方も上手ですし、お話は大変おもしろい。

しかし、どうしたことかこのテレビ版、舞台版で感じられた満足感がチョット伝わってこない。というか、「え?この時間はナニ?」というようなもてあましたような時間が随所にちりばめられており、脚本と撮影の尺があってないかのごとき雰囲気。いったん気になり出すとカットのタイミングがいちいち遅くかんじる。まるで脚本を書き上げたあとに放送時間が変更になって伸びたんで各シーンを長めに編集した?というほどに間延びしていて、はたしてキャラクターたちが舞台裏で奔走したことはハプニングを解決したといえるのだろうか?と疑問が残るほど。特に最後は「アレ?テープ余った?」とテレビにつっこみたくなるシーンがダラダラ続く。

舞台版とテレビ版の大きな違いは何かというと、ストーリーよりも、監督さんが違う。これが大きいんじゃないか。聞いたことのない監督さんでしたが、もしかしたらこの人が三谷喜劇を理解してなかったとも考えられる。(とはいえ、このテレビ版で三谷幸喜ファンになった人多いようです。そりゃあもとの脚本の勝利なんじゃないかと思っております。)

あと、失敬な言い方なんですが、徹底的に美男美女が不在なんですね。そういうところで華がまったく無い上に、主役の西村雅彦が舞台版より遙かに物静かな陰険な役どころになってて、笑いが一切排除されてる。コレがまた独特なムードを作ってます。監督は三谷幸喜を理解できないっつうより、根本的に喜劇が撮れないのかもです。


さて、劇中劇の忠臣蔵は「ブラボー忠臣蔵」というアバンギャルドなものにアレンジされてる設定なので、それがツッコミどころの免罪符になっており、もう自由でいいわけでして、忠臣蔵であって無いような感じになっておりました。 大好きな三谷幸喜が忠臣蔵を扱ったということがまずうれしいのでなんでもアリですわい。