ショウ マスト ゴー オン 幕をおろすな

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2008年10月17日 (金) 16:50時点におけるKusuo (トーク | 投稿記録)による版

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三谷幸喜、作、演出の喜劇。

初演が1991年のシモキタ本多劇場で、忠臣蔵が関連するのは翌年のテレビ版。深夜にフジテレビで放送されたそうです。その録画を見せていただきました。


お芝居の本番中にアクシデントが次々に起きて作品がめちゃめちゃになっていくのを現場の人間が四苦八苦してエンディングまでなんとか持って行くという、いわば三谷幸喜のお家芸の元祖みたいな作品。大泉洋は本作品を見て役者を目指したとか?


ストーリーは、寿命が危ない老役者の舞台をサポートすべく、裏方や共演者がてんやわんやする話で、付け焼き刃な対策が作家の意図しない方向へどんどんと作品を変えていく。

勝手に作品を変えられた作家が「どうして言ってくれないのかなー。言ってくれたら、ボク、自分で直したのになーっ」と悲痛に(そして滑稽に)叫ぶシーンは他人事とは思えませんでした。なにせテレビのオンエアを見たらCG屋さんが黙ってあたしの絵を描き変えてたなんてことが日常なので(^∇^; )。


舞台版は1994年の紀伊國屋ホールのをニコ動で見たが、10年以上前のビミョーな時代背景の作品なのにすごく笑える。


さて、テレビ版のおはなしは劇中劇の「マクベス」をお茶の間向きに「忠臣蔵」に変えており、そのことがとりもなおさず、本コーナーで作品を取り上げようと思ったキッカケでもありますが、劇場版ではメインである「老役者をバックアップする」というプロットは無くなって、純粋に舞台裏で起こるアクシデントだけに的を絞って簡単なかんじに構成されてます。舞台版とは相当違うストーリー。それでも相変わらず布石の置き方も上手ですし、お話は大変おもしろい。

しかし、どうしたことかこのテレビ版、舞台版で感じられた満足感がチョットわいてこない。それどころか舞台版を見ると「ああ、三谷幸喜ってもうこの頃ですでに完成してるんだなあ」と感心しきりなんですがテレビ版を見ると「ああ、三谷幸喜って若いころはまだこんな感じだったんだあ」と、感想がかなり変わっちゃうんです。

具体的には、テレビ版は彼の作品にしてはテンポがかなり独特で「え?この間はナニ?」というような、もてあましたようにも取れる時間が随所にちりばめられており、脚本と撮影の尺があってないかのごとき雰囲気。いったん気になり出すとカットのタイミングがいちいち遅くかんじる。まるで脚本を書き上げたあとに放送時間が変更になって伸びたんで各シーンを長めに編集した?というほどに間延びしていて、各エピソードのノロノロ加減を見てると、はたしてキャラクターたちが舞台裏で奔走したことはハプニングを解決したといえるのだろうか?と疑問が残るほど。それまで「猫が好き」しかやったことのない三谷にとっては初のドラマを書くのがしんどかったのか…?

いずれにしろ、演出や編集でそれがフォローできてないことが悔やまれる。違和感の原因はストーリーの違いではなく、監督さんが違うことが大きいんじゃないかしら。やっぱ演出は三谷自身がやるに限る。このテレビ版は、あたしの聞いたことのない監督さんでしたが、もしかしたらこの人が三谷喜劇を理解してなかったのでは?(とはいえ、このテレビ版で三谷幸喜ファンになった人多いようです。)

あと、失敬な言い方なんですが、徹ッ底的に、とことんイイ男&イイ女が不在なんです。そういうところで絵ヅラ的にまったく華が無い上に、主役の西村雅彦が舞台版より遙かに物静かな陰険な役どころになってて、笑いが一切排除されてる。舞台版で同じ役の西村は、現場では威張ってるものの女房にはイジメられてるというバランスが見事に笑いにつながってるのに、テレビ版西村は人が泣くほど怒鳴り散らしたりにらんだりと救いようがない。こういう演出がまた視聴者を一層笑いから遠ざけるムードを作ってます。

この翌年が、勝手に脚本を変えられて三谷幸喜がへこんだ「振り返れば奴がいる」なんですが、もしかしたらこの頃って、彼の思ったような完成度には作品が仕上げられない境遇にあったのかもしれない。とはいえテレビ版「ショウマスト…」も「振り返れば」も熱狂的なファンがいる。


さて、肝心な劇中劇の忠臣蔵ですが、「ブラボー忠臣蔵」というアバンギャルドなものにアレンジされてる設定なので、それがツッコミどころの免罪符になっており、もう自由でいいわけでして、忠臣蔵であって無いような感じになっておりました。この本を書くに当たって、三谷幸喜はあらためて忠臣蔵を研究するようなことはしてないんじゃないかと思います。

取り上げてくれたことがまずうれしいのでなんでもアリですわい。