「元助」の版間の差分

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討ち入り後、彼の故郷の群馬県でお坊さん音外坊になり、20年余かけて義士の石像47体を作った。
 
討ち入り後、彼の故郷の群馬県でお坊さん音外坊になり、20年余かけて義士の石像47体を作った。
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そのあと諸国巡業をしてから千葉の房州和田([[浅野大学]]がそっちのほうで再興してますな)に向西坊という名で現れて、そこで死んで、碑もあるそうです。
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* [https://youtu.be/sQLsvhsrFyM 忠臣蔵文化ちゃんねる「紀行モノ忠臣蔵〜群馬県 安中〜」]
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赤穂四十七義士石像 〒379-0103群馬県安中市東上秋間岩戸3197
 
赤穂四十七義士石像 〒379-0103群馬県安中市東上秋間岩戸3197
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向西坊・入定窟 南房総市和田町花園
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画像:gensuke.jpg |岩廂(いわひさし)の下の岩肌を磨崖仏みたいに掘ったという四十七士像。(岩肌とは石質が違うようだが…)
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画像:motosuke_birth.jpg |安中市の元助・生誕の地。
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画像:motosuke_kuyou_tower.jpg |元助の供養塔。住んでいた場所。
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2022年5月23日 (月) 12:32時点における最新版

片岡源五右衛門の下男。

討ち入り後、彼の故郷の群馬県でお坊さん音外坊になり、20年余かけて義士の石像47体を作った。

そのあと諸国巡業をしてから千葉の房州和田(浅野大学がそっちのほうで再興してますな)に向西坊という名で現れて、そこで死んで、碑もあるそうです。



赤穂四十七義士石像 〒379-0103群馬県安中市東上秋間岩戸3197

向西坊・入定窟 南房総市和田町花園