「四十八人目の男」の版間の差分

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{{Cinema|制作=東宝|公開=1952|内蔵助=大河内伝次郎|星=3|頃=}}
 
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戦後初の「チャンバラのある忠臣蔵」。
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戦後初の「討ち入りのある忠臣蔵」。(当時の東宝スタジオメールより)
  
 
脱盟者・[[小山田庄左衛門]]が主人公で、彼の葛藤や苦悩を描く。
 
脱盟者・[[小山田庄左衛門]]が主人公で、彼の葛藤や苦悩を描く。

2021年1月25日 (月) 16:19時点における版

作品概要
制作会社 東宝
公開年度 1952年
内蔵助役 大河内伝次郎
評価 3ツ星


戦後初の「討ち入りのある忠臣蔵」。(当時の東宝スタジオメールより)

脱盟者・小山田庄左衛門が主人公で、彼の葛藤や苦悩を描く。

劇中の小山田像は、実際に伝えられる(&講談で表現される)「泥棒をして辞めちゃった」男ではない。

原作の大佛次郎先生は「赤穂浪士」でも小山田庄左衛門をひっぱりだしてきたが、「赤穂浪士」とはまったく別のアナザーワールドの内容であります。


真っ直ぐな青年、赤穂の浪人・小山田庄左衛門は逐電した大野九郎兵衛を見つけ出し斬り殺そうとするが命乞いするので呆れ、命を助ける代わりに「犬の真似をしろ」と愚弄するも予想に反してなんとも後味が悪かった。

これを皮切りに、ひょんな事で知り合った上杉家の間者・小関新九郎(キーパーソンとなる)に道端のタイマン勝負で敗れたり、知り合った姉妹からすごくモテたりすることで、どんどんと彼が一途に信じていたものが崩れ始める。

特に初対面から後も小関新九郎はなにかと庄左衛門の弱くなったココロネに付け入り、かつて彼が手にかけた吉良邸用人の遺子にわざと会わせたり、グラグラと彼を揺さぶる。


演技とか演出もさることながらカット割りが良いせいなのか登場人物の心理変化についていきやすい。全体が丁寧で「ちゃんとしてる」作品。

監督はのちに「昭和残侠伝」をヒットさせる佐伯清。


戦後の忠臣蔵映画にはこないだまで続いていた十五年戦争によほど嫌気が差したか「自由」に対する賛美を声高に入れる傾向を感じ、この作品でものっけから大野が「わしは生きていたいっ」と言うし、庄左衛門にぞっこんのおねえさんも「この世に生まれてしたいことをしなかったらつまらないもの」などと言っている。

それでも本作は「ほんとに討ち入りに参加しないで生き延びることで正解か?」という点をたえず掲げている部分が、ちょっとほかの上を行ってる感じ。

脱盟を決めた庄左衛門からは冒頭の清々しいところが次第になくなる。これだけ丁寧に脱盟者に焦点を当てて共感ができても、「葛藤」の描写がリアルなぶん、ときどきカット・インされる討ち入りに出かけるメンバーの姿や彼らの戦いが「やっぱり」かっこ良く見えてきたりする。戦後の観客にはどう写ったろうか?


作品の質を高めてるのは原作の大佛次郎先生が脚本に参加(!)してることが、おおきく寄与しているのではなかろうか。


おもんみるに忠臣蔵の魅力というのはまさにこの点「どう生きるのが正解か」が鑑賞者に訴えるポイントかなと。そのテーマがうまく構成できると敵味方双方の言い分を楽しめるようで。

ただ、個人的にはあくまでその思いを巡らせるのにはこの作品のように吉良vs赤穂浪士というステレオタイプの土俵がほしい。勧善懲悪の土俵。そこに乗せられちゃう人の気持ち。これがないと忠臣蔵の意味が無い。

本作で吉良をやった高堂国典(「ゴジラ」で大戸島の長老、「七人の侍」で村の長老)はなっかなかのクソジジイぶり。上杉の家臣が「仕えたくないなあ」と思うような非人格者であるほど登場人物の気持ちを楽しめる。