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大石内蔵助

113 バイト追加, 2009年12月21日 (月) 08:38
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== じゃっかんつっこんだエピソード ==
元禄14年3月18日23時頃、内蔵助の屋敷に早駕籠が江戸から宙を飛んできた。乗っていたのは[[早水藤左衛門]]と[[萱野三平]]。彼らが持ってきたのは江戸城中で[[浅野内匠頭|殿様]]が傷害事件を起こしてしまったというニュース。その後続報を[[原惣右衛門]]と[[大石瀬左衛門]]が持ってきて、とにかくだしぬけに'''殿様切腹、家は断絶、殿様のケンカの相手はおとがめナシ殿様切腹、家は断絶、殿様の[[吉良上野介|ケンカの相手]]はおとがめナシ'''と聞いて、城は悲憤慷慨。
内蔵助はまず退職金を藩士達に分配。ここで不忠者は抜けた。内蔵助、去る者は追わず。最後の評定の時は士分だけで536人いたのがたった56人になっていた(この数字、講談の数字ですのでフィクションです)。ここで内蔵助は初めて復讐のことを申し出た。
5月22日残務が終わった内蔵助はホッとしたのか腕に腫れの病を発病。その後京都山科村に引っ越した。
山科での内蔵助は高利貸しをしたり伏見、墨染、撞木町で太夫、幇間に取り巻かれ遊興三昧をした。周囲は彼のそんな姿を見て「犬侍ちくしょう武士」とあだ名した。しまいには「遊女を身請けするから」と言って妻の山科での内蔵助は高利貸しをしたり伏見、墨染、撞木町で太夫、幇間に取り巻かれ遊興三昧をした。周囲は彼のそんな姿を見て「犬侍ちくしょう武士」とあだ名し侮蔑。しまいに内蔵助は「遊女を身請けするから」と言って妻の[[大石りく|よし]]を離別し実家に返す。しかしこれは敵を欺く計略だったのであります。を離別し実家に返す。'''しかしこれは敵を欺く計略'''だったのであります。
その後二条寺町のほとり、二文字屋の[[お軽]]という娘を妾にする。[[千坂兵部]]が放った吉良上杉の間者も「妾までおくようではもう大丈夫」と安心した。敵の目をあざむくと同時に江戸にいる急進派、が放った吉良上杉の間者も「妾まで置くようではもう大丈夫」と安心した。敵の目をあざむくと同時に江戸にいる仲間達、特に急進派の[[堀部安兵衛]]たちもいきりたたせた。たちをもいきりたたせた。
11月に一度江戸下向して急進派の安兵衛たちと会い、暫定的に「殿の命日3月に決行」と取り決める。11月に一度江戸下向して安兵衛たちと会い、暫定的に「殿の命日3月に決行」と取り決める。(江戸会議)
翌・元禄15年、約束の期日が過ぎても内蔵助は動かなかった。しかし翌・元禄15年、約束の期日が過ぎても内蔵助は動かなかった。
これまで殿様の後釜に引っ張り出そうとしてた[[浅野大学|弟君]]が7月になって「広島の本家にお預け」と決定。内蔵助は遂に、京都円山(まるやま)に上京中の安兵衛たちも呼び、討ち入り決行をメンバーに告げる。が7月になって「広島の本家にお預け」と決定。お家再興の望みが絶たれると内蔵助は遂に、京都円山(まるやま)に上京中の安兵衛たちも呼び、あらためて討ち入り決行をメンバーに告げる。(円山会議)
いよいよ10月07日京都出立。[[垣見五郎兵衛]]と名を変えて江戸下向。川崎・平間村に到着し、同士が代わる代わる内蔵助を訪ねて密議を重ね、その後は江戸・日本橋、石町三丁目の小山屋弥兵衛の店を借りて潜伏した。と名を変えて江戸下向。川崎・平間村に到着し、同士が代わる代わる内蔵助を訪ねては密議を重ね、その後は江戸・日本橋、石町三丁目の小山屋弥兵衛の店を借りて潜伏した。
[[岡野金右衛門]]が[[お艶|大工の娘]]にたのんで絵図面を入手したり、[[大高源五]]が敵の動静を探るなど、メンバーがそれぞれ情報を入手、遂に討ち入り決行の日を12月14日と決め、事件のきっかけになった[[浅野内匠頭|殿様]]の[[吉良上野介|上司]]だった人を殺しにいく。

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