大高源五

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2009年4月29日 (水) 03:49時点におけるKid (トーク | 投稿記録)による版 (カテゴリーリンク追加)

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役者絵:平田 満
沼津の旅館が家宝にしてた詫証文。 明治時代の記事より。

大高源五【おおたか げんご】…風流キャラ。

赤穂城倒産後は煤竹(すすだけ:すす払いに使う笹)売り〜京都呉服屋新兵衛。俳号「子葉(しよう)」。

12月14日の吉良屋敷で茶会があることを初代山田宗遍(やまだそうへん)から聞いた人。

彼には江戸下りのときに伊豆で馬子・国蔵に言いがかりをつけられ、詫び状を書かされたエピソードがあるが、芝居などでは神崎与五郎のアクシデントとして書かれている(なんで?)。ちなみに大高が書いた詫び状は現存しているとも言われる(画像:下)。


元禄15年夏頃、浅野大学さんをヘッドにして倒産した赤穂藩を再興させてくれと幕府にお願いして、期待してたのに「ナシ」と言うことになっちゃって大石は討ち入りを決意するが、以前に「大石さんについていく」と言ってくれた藩士たちから集めた決心の念書「神文(しんもん)」をとりあえず貝賀弥左衛門と一緒にみんなに返してきてくれと、大高はお使いをたのまれる。返すと言うのは方便だが、その時黙って受け取るやつはメンバーから外し、覚悟あるものを見極める大石の計画であった。「神文返し」


討ち入り前日、雪の中いつものように煤竹売りに流して歩いてるところに橋の上で浪人する前の俳句友達の宝井其角とバッタリ会ってひさしぶりに句を交わす。宝井「年の瀬や水の流れも人の身も」(とか「人の流れと人の身は」)。大高「あした待たるるその宝船」。宝井は句の意味をあれこれ考える。


討ち入りのときにお隣の土屋さんちに挨拶に行ってる。

享年38。

まんが「のらくろ軍曹」ではのらくろが演じ、煤竹売りではなくあんまになって吉良邸を散策した。

歌舞伎に彼と宝井其角の交流を描く「松浦の太鼓」がある。

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