実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻

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2015年10月19日 (月) 03:23時点におけるKusuo (トーク | 投稿記録)による版

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作品概要
制作会社 日活大将軍
公開年度 1926年
内蔵助役 尾上松之助
評価 3ツ星


貴重な、尾上松之助、晩年(この公開年になくなっている)の「忠臣蔵」。

当然といえば当然なのだろうが16年前の「忠臣蔵」から日本映画も成長し、尾上松之助の貫禄も演技も、カメラの動きや構図のとり方もグッと「映画的」になっている。

もともと3時間あったと言われる本作は、1時間強のダイジェストになった状態で家庭用映画として保存されていたフィルムが発見され、おもちゃ映画ミュージアムさんに寄贈されたものが公開されたのだが、それだけにクレジットに「鍔屋宗伴…大河内伝次郎」とあるのに本編に出てこなかったり、討ち入りのときに女間者が吉良の面相を浪士に伝えるが彼女が誰の身内か謎であったりする(たぶん山岡覚兵衛の奥さんあたりじゃないかなあ)。

しかしそれら削除シーンが無くても、いろいろ独特なアレンジが残っている。すごく斬新に思えた。

量産されてる(?)時代なので他作品との区別化をはかってこうなったのだろうか?


まず、あぐりのほかにあぐりと同じ熱量で浅野内匠頭を心配する小姓が出てくる(前髪姿で誰かは不明)。留守中なんかはあぐりと並んで凶報を聴いたりして、そんなの見たこと無い。

内匠頭がウソを教えられて装束を間違えるエピソードのあとに、勅使を出迎える場所をしっかり間違えて大恥かいて泣くシーンがある。

で、このあとで梶川与惣兵衛が内匠頭に「式が終わったら桂昌院様にお知らせを」と言ってると、吉良が割って入って「田舎大名におたずねあってナニゴトがお分かりになろう」とイヤミ。で、ですね、このあとにご膳部のあらためシーンが来る。「精進料理とは不吉」ってアレです。これ、この順番であってるのでしょうか。家庭用に編集するときに間違っちゃって字幕はあとからあらためて入れたりしているのでわ??

「ただ今調理中なのでご猶予を」「御用繁多じゃ」ピシャーリ!という字幕でケンカになってはいくが、料理のハナシで刃傷…。

この時内匠頭がググーッとアップになって上野介のほうもググーッとよったかと思ったら、刃傷がすげえルーズ(引き)になって、なんか、寄るとか引くとかにまだ慣れてない感じw。


赤穂では江戸での殿さまのごちそう役が無事に済むよう、内蔵助(松之助)が神社(どこ?)でお百度を踏んでいる。近くに通りかかった早駕籠を急に止めると、早駕籠を担ぐ人も乗ってる人も駕籠そのものもみんなひっくり返る。凶報を聴いた内蔵助は持っていた竹串をバラバラと落とす。


でねでね!三村次郎左衛門と寺坂吉右衛門と矢頭右衛門七とがいっぺんに出てくる大評定ってあたしのアニメぐらいと思ってたらこの作品にもありました。もちろんアニメみたいにふざけませんが3人は「身分の軽重によって忠義の念に変わりがありましょうか!」「冥土で殿の草履を取るのは寺坂の役目!」「父は自害しました」と頑張る。


一力茶屋で面白かったのが、苅藻太夫を絵に描いてる内蔵助の背後に芸者4人がソッと近寄りおどかそうとするが、内蔵助は反撃に出て4人の顔にいっぺんに絵の具を一直線に引くシーン。逃げる芸者。

芸者集のたまり場のふすまがスーッと開いて絵の具のツボを持った内蔵助が現れると、芸者衆がパニックになるというシーンも笑った。

山科の閑居では下の小さな男の子ふたり(大三郎が生まれちゃってる)が花魁道中の真似事みたいなことをしてとにかく親父を全面肯定。これが「山科の別れ」のときに効いてくる。大好きなおとうちゃんや主税にいちゃんと「男衆でいつまでもまとまっていたい」という子どもたちのキモチは涙をさそう。


いきなりズドーンと飛んでみんなを集めて円山会議。…字幕では「泉岳寺」ということになってるが(やっぱり字幕、ちょっと作品よりもあとか作ったものかなあ)、そこでメンバーめいめいのお椀の中にまんじゅうみたいのが入っててそれをどけると椀の底に「討ち入り決行」を知らせるメモが入ってる。ウォーと盛り上がるメンバー。お椀の仕掛けだいなし(笑)。


討ち入りのとき、各メンバーに付けたひらがな文字は「左仮名は表門、右文字は裏門、同文字3人は一組で」と指示が出て、これも斬新だった。


「赤穂浪士の乱入だッ」・・・赤穂浪士・・大佛次郎の作品より前の映画ですが、ま、大佛次郎が発明した言葉でもないので、いやでもやっぱり、この字幕・・・


最後に笑ったのが炭小屋で、隠れてる吉良の体に彼を探す浪士の槍が突き刺さるが、一緒に隠れてる用人が吉良に「しーっ」と声を立てないようにうながすシーン。


というわけで、字幕と内容とに「おや」と思うところがちょいちょいあったのですが、なんでも本作は尾上松之助の一周期(昭和2年)に『増補改訂忠臣蔵』と名を変えて上演しているそうであります。その際大河内伝次郎の鍔屋宗伴とかが「増補」されたようで、「おや」と思う原因の手がかりなのかなと思っております。


大正時代最後で昭和ではじめての忠臣蔵。