携帯忠臣蔵〜世にも奇妙な物語 映画の特別編〜

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2021年10月9日 (土) 22:57時点におけるKusuo (トーク | 投稿記録)による版

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作品概要
制作会社 フジテレビ
公開年度 2000年
内蔵助役 中井貴一
評価 1ツ星
公開当時のパンフレット

 いくらでも面白くなりそうな「忠臣蔵」「携帯電話」「タイムパラドックス」という三題噺を完全に台無しにしてしまった惜しい作品。


<ネタバレ注意>

 ストーリー:未来から大石内蔵助に一台、携帯が送られてくる。電話の向こうからは「歴史上のことがホントにあったのか調べるためにかけてます。討ち入りはするんですか?」の声。死にたくない内蔵助の回答はあやふや。討ち入り当日も逃亡したがっていたが、ギリギリになって「自分たちは未来で生きているんだな」と未来に確認すると、ヤル気になって出陣。未来では沢山のブースから各国の歴史上の人物に電話をかけていた…。


 チョンマゲの世界に携帯電話、という絵柄が思い浮かんだ時点で「なんとなく面白そう〜」と満足して、そこで思考停止してしまったのではあるまいか。

 この作品を助けてるのは中井貴一のコミカルな孤軍奮闘。そして、絵作りもきれいだし、音楽や編集の仕方など、周囲はコレをおもしろくしようと努力されてるし、うまくいってる。だからネット上のレビューでこの映画を「面白い」と言ってるコメントを見ると、まさにだいたいこの「着想」と「雰囲気」と「中井貴一」が評価されてるのが簡単に見つかる。

 しかしお話のほうが設定、ギャグ、ストーリーに、まったく特筆すべき点がない。

 そんなに辛い言い方をしなくても、もともと視聴者の要求レベルが高くない「世にも奇妙…」(当時)なんだし大目に見ても、なのだが、情報戦である討ち入り計画に「携帯電話」という必殺道具が、未来から元禄の世に与えられるのだから、忠臣蔵ファンの脳内にはタイトルだけ聞いた時点であれこれと勝手な名場面を期待してしまう。

 すなわち、浪士たちと携帯電話との出逢い、そして使いこなし始めてからの作戦…。いやいや逆に、携帯は吉良側に与えられて、討ち入りの結末に影響があるのかも!?…アンテナは誰が建て、はたしてその目的とは!?…とか、「忠臣蔵」と「携帯電話」という、超もってこいのコラボにいろいろ想像力をかきたてられワクワクするのだ。

 それはたとえば自衛隊が戦国時代にタイムスリップする「戦国自衛隊」や、自衛隊のイージス艦がミッドウェー海戦前にタイムスリップする「ジパング」にも匹敵する、大逆転も予想されるワクワクなのである!

 …が、実際に見てみると、そうしたアクシデントは一切なく、ただただチョンマゲの中井貴一が、未来の八嶋智人と、いつも同じ要件でただ電話してるだけの繰り返し。

 この「行き届かなさ」がほんとう〜にもったいなくって、ガッッカリするのです。タイトルから受ける期待度と中身のガッカリの高低差はAVのストリーミングを失敗したときのそれに匹敵する。(ま、そのていどなんだけど 笑)

 尺の問題もあっていろいろはしょらなきゃいけない制約はわかるが、それにしてもコレが最良だろうか?そもそもこういう「トワイライトゾーン」的な番組は「お話がまず肝心要」なんじゃないんでしょうか。それもせっかくの「劇場版」というお膳立てなのに。

 そもそも、たった一台だけ未来とつながってるツールを内蔵助ただ一人に持たして一方的に未来人が何度も同じ事を聴くためだけに電話かけてくるんなら、多機能*が自慢の「携帯電話」である必要がまったくないのだ(携帯電話の形状自体にも意味が無い)。ケータイあるあるなネタも、使わずじまい(おかるが根付けをつけるシーンはある)。ぶっちゃけ「忠臣蔵」が題材である必要性も全然なし(皮肉なことにオチがそう言い表しているw)。*もっとも、2000年当時での機能はたかが知れているが。

 あたし個人の意見だが、

 もっとも赤穂事件関係者に聞きたい「ナゾ」は討ち入りがあったかなかったかではなく、刃傷の原因である。


 きっと脚本家自身が、携帯電話で300年前の内蔵助に聞きたいことが、まったく無かったのだろう。


 どっかのサイトにこんな記録を見つけた。

 当時「ナニワ金融道」で忙しい脚本家・君塚良一氏はこの仕事をいったんは断ったのに、プロデューサー氏が「ジェームス三木さんも、一流の脚本家はみんな忠臣蔵を一度は書いてるんですよ」と口説き倒したという。(註01)

 …つまりはそんないきさつで売れっ子脚本家に無理に押し付けた(ファンとしてはその心意気はうれしい)おかげで、まことにお気の毒にしあがったわけだ。

 無意識にハードルを上げてしまった(これが情報戦とはまったく無関係なツール=たとえば「ラーメン忠臣蔵」だったらどれほど傷が浅かったことか)制作者たちが悪いのではなく、「携帯忠臣蔵」が背負ったバック・グラウンドが不幸だったのだろう。「コレも運命か…。」(<劇中の内蔵助の台詞)


<附言>私とは親子ほど年の離れた後輩(平成初期生まれ)が「小学生の時に見てオモシロイと思った」と言っていた。重畳。

 時代劇やSFにノンケで、ライムスター宇多丸さん言うところの「ベロベロバー的な笑い」(註02)で満足な鑑賞者には、まったく罪の無い作品だと思います。



註01…君塚氏が無理強いされたとするネットの話題(たしか対談だった)は、もりいが2008年頃に読んだものだが、その後出典を明らかにしようと、後追いで記述の元になってる記事をネット上で探したが、2020年5月現在、見つからなくなってしまった。こうなっては、もはや、もりいくすおの見た幻だったかもしれないが、エピソードとしては大変ありそうなことなので、削除せずに残す。

ちなみに、ジェームス三木氏の忠臣蔵について、君塚氏を口説くのに例にあげるような仕事は、2000年時点では記録から確認できない。


註02…「ベロベロバー的な笑い」<宇多丸氏が本作に関してコメントしたのではなく、ウイットやユーモアの欠けた、ウェルメードな仕掛けとかも一切無い、原始的な笑わせ方を、彼がレビューの中でそう呼んでいるので、引用させていただきました次第。で、あたしも、本作がベロベロバー的だとも言ってません。


原作について

 「携帯忠臣蔵」を見ていて、最後のエンドロールに載っかってる「原作:清水義範 識者の意見」というクレジットに興味を持ち、それが収録されている光文社文庫「昭和御前試合」という短編集を早速手に入れて読んでみた。

 7ページくらいの、ホントに短編だが、これがナチュラル素直に面白かった。ぶっちゃけ映画とずいぶん違う。

 原作(原案?)がどう面白かったか話し始めると、また「携帯忠臣蔵」のどこがまずかったかのハナシが長くなりそうなのではしょるが、先に書いた「一方的に未来人が何度も同じ事を聴くためだけに電話かけてくるんなら、多機能が自慢の「携帯電話」である必要がまったくない」という部分とか、内蔵助に交信してくる必然性は原作では見事にクリアされてる。簡単に言うと「携帯電話」ではなく「時間話」という、テレパシーに近い手段で未来人は一方的に交信してくる。その目的も映画よりはるかにばかばかしくて面白い。ラストもセンスがある。

 この短編が喜劇として成立してる理由のひとつに、内蔵助が頭領然としていることがあげられる。まじめに討ち入り決行しようとしてる人に、チョイチョイ未来から邪魔が入るからアンバランスで面白い(いわゆる緩急(かんきゅう)という、お笑いの基本であり、同時に携帯あるあるでもある.)。

 映画のように、おちゃらけたオッサンに携帯がかかってきても絵ヅラは「さもあろう」といった意外性のないおもむきになる。

 おっと、いかん、結局映画の苦言が始まってしまった…。