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もりいくすお
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物心ついた時からすでに絵を描くのが好きだったくすおは、小学生の時、雑誌の「テレビランド」や「小学四年生」「小学五年生」に投稿して絵を掲載してもらう印刷初体験をする。同時に「おはようこどもショー」のコーナーでつボイノリオの背景に絵を採用された放送電波初体験もした。(放送をした日本テレビは当時'''赤穂浪士が潜伏した麹町'''にあったが、現在、汐留の'''仙台藩芝口上屋敷跡'''にある。討ち入り後に赤穂浪士に粥を振る舞ったお屋敷である)
テレビや漫画ばかり見ていてあまりに勉強しないので、罰として親に漫画本のすべてを破棄されるがクオリティの高い手塚治虫(<ちなみに先生は「'''[[わんわん忠臣蔵]]'''」原案を担当している。手塚プロのある高田馬場は'''[[堀部安兵衛|中山安兵衛]]の決闘'''で有名。)作品だけは父の情けで読んでいいというお赦しが出る。(当時俗悪とされたテレビ番組「8時だヨ!全員集合」「うわさのチャンネル」についても視聴禁令が敷かれた)で有名。晩年に「七色いんこ」という作品で'''忠臣蔵'''のパロディを扱ってらっしゃいました。)作品だけは父の情けで読んでいいというお赦しが出る。(当時俗悪とされたテレビ番組「8時だヨ!全員集合」「うわさのチャンネル」についても視聴禁令が敷かれた)
勉強のじゃまになったり、他人の机を落書きで汚したり、いかがわしい絵を描いたりという悪行に対してしばしばマンガ全般禁止令が出るが、今にして思えば抑圧はますます描きたい情熱をかきたてた。
== イラストデビュー以降 ==
[[画像:hazama_family.jpg|thumb|2019.05月 羽佐間一家のご子孫。羽佐間省二さんの取持ちで高校の大先輩・羽佐間正雄氏と、かつてモノマネを褒めてくださった声優・羽佐間道夫氏と。渋谷にて。羽佐間一家のご子孫。羽佐間省二さんの取持ちで高校の大先輩・羽佐間正雄氏と、かつてコサキンのラジオでモノマネを褒めてくださった声優・羽佐間道夫氏と。渋谷にて。]]
イラストのデビュー当初はフランスのバンド・デシネに憧れたこともあってアクリル絵の具を使ったリアル絵を積極的にメインの仕事とし、雑誌や広告にイラストを提供し(フロム・エー/ガテンなど)、タカラトミーのプレステゲーム「ラーメン橋」のキャラデザインなどもした。
またその後、ルポ漫画を得意とした作家としてほうぼう出かけてはそれをマンガにすることが多くなる。(リクルートガテン「おしごと見聞録」/日刊ゲンダイ「見てきたマンマ」/三才ブックス裏ッ!「ピンポンダッシュ」/講談社モーニング「モーニング探検隊」など)
この時点でも、まだ忠臣蔵にはハマっていないが、タイミングとしてはあきらかにこの引越がターニング・ポイントといえる。