「間瀬孫九郎」の版間の差分

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間瀬孫九郎【ませ まごくろう】…[[間瀬久太夫]]の長男。
 
間瀬孫九郎【ませ まごくろう】…[[間瀬久太夫]]の長男。
  
正路潔白の度が過ぎておもしろくない男。
 
  
友「貴公のような片物(へんぶつ)じゃあ同僚のつきあいができん。一緒に女郎買いに出かけよう」
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事件前、芝居小屋でもめたチンピラを斬り殺してしまったかどで退役。一時、浪人をしていた。1年ほど謹慎してから帰参したら「松の廊下事件」。
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お家改易後、潜伏中は江戸で寿司屋をはじめる。頭に寿司桶を乗せて派手な身なりで吉良屋敷の近辺を売り歩いた。吉良邸の食い意地の張った用人達にたいそう気に入られ毎晩商いに通い、大部屋の下郎、匹夫になじみができる。貸し売りはするけど帳面はつけないし、みんなの前で「今日は宇治川の合戦でもやりますか」などと講釈をやったりするのでことごとく気に入られた。
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ある日、[[小林平八郎]]が「商売をして利益に関わらざるとは怪しきヤツ」と大部屋頭・弥一右衛門に探らせる。弥一右衛門はやってきた孫九郎に「腐ったものを喰わせやがって途方もねえ道禄神だ」と言いがかりをつけて暴力をふるう。額に傷を受けて血潮を垂らしながらとにかく謝ったが「こりゃバレたかな」と思った孫九郎は用心して吉良邸まで商売に行かなくなりました。
  
孫「瘡(かさ)をかいて鼻でも落ちたら侍のつとめができぬ」
 
  
友「バカだなあ。鼻が落ちるの骨がらみだのというのはよっぽど運の悪い万人に一人だ。」
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江戸で見かけた[[大野九郎兵衛]]親子を執念深く追い続け、息子・[[大野軍右衛門|軍右衛門]]を吉原土手で、逃げた大野九郎兵衛を熊谷で斬り殺し、遺髪を泉岳寺に持って行く。
  
大阪蔵屋敷の在勤が決まったとき、先輩が「あんな無骨じゃ大阪商人とやりとりができん」とウザがり、色香にまよわそうとしたり、橋の上から大きな石を落として殺そうとするので孫九郎はキレて先輩達を殺して死体にまたがって切腹しようと計略するが、部下の大助([[小野寺十内]]の家来)に「堪忍が第一」止められる。
 
  
暗殺実行犯、ちんぴらの半助は孫九郎の手裏剣を食らって片目をつぶされるが、「自分は関係ないのに傷を負わされた」としらばくれて子分を使って孫九郎宅へゆすりに行かせる。ここもグッと堪忍して翌日大助が賠償金を持って出かけてみると半助は行方知れずの大助の弟だった!「おまえ、親不孝の末行方知れずになったかと思ったらこんなていたらく!」嘆く兄。親の忌日も知らず悪いことやった罰に片目を失ったと反省した半助は寝返り、兄・大助や孫九郎の手下となって、悪い先輩達をやり込める作戦に出る。
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その後いよいよ仇討ちの晩、潜伏中に自分を侮辱した用人、弥一右衛門を一刀の許に切り捨てた。永らく出入りをしていたので夜討ちの夜はたいそう役に立ったようであります。
  
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「山」つって「山」と答えた吉良の家来、[[鳥居理右衛門]]と戦った。
  
事件前、芝居小屋でもめたチンピラを斬り殺してしまったかどで退役。一時、浪人をしていた。1年ほど謹慎してから帰参したら「松の廊下事件」。
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(以上・講談)
  
討ち入りの時「山」つって「山」と答えた吉良の家来、[[鳥居理右衛門]]と戦った。
 
  
引き揚げの最中、宇田川町近辺で5〜6歳の子供が寄ってきて血まみれ装束の孫九郎に「おっちゃん、だいとくれ」とリクエスト。袖紋をあげてだっこしながら自分の子供を思い出して行進を続けていると、子供のお母さんがやってきて「すいません、うちの子がどんな粗相をしたかは存じませんが生き血を吸うのだけはご勘弁下さい」とビビって嘆願した。
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引き揚げの最中、芝宇田川町(現・東新橋あたり)近辺で5〜6歳の子供が寄ってきて血まみれ、血みどろ血んがいの装束姿の孫九郎に「おっちゃん、だいとくれ」とリクエスト。袖紋をあげてだっこしながら自分の子供を思い出して行進を続けていると、子供のお母さんがやってきて「すいません、うちの子がどんな粗相をしたかは存じませんが'''生き血を吸うのだけはご勘弁下さい'''」とビビって嘆願した。
  
 
この子がなぜかその後も泉岳寺参りをやめないので、親の伊勢屋半兵衛(とか米屋の北国屋半三郎とか)はなにかの因縁と、泉岳寺に付け届けをしたと申します。
 
この子がなぜかその後も泉岳寺参りをやめないので、親の伊勢屋半兵衛(とか米屋の北国屋半三郎とか)はなにかの因縁と、泉岳寺に付け届けをしたと申します。
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([[通し狂言 仮名手本忠臣蔵|仮名手本忠臣蔵]]をもとに赤穂義士外伝を人情本的に脚色した「いろは文庫」では[[大高源五]](大鷲文吾)のエピソードとして描かれている。)
  
  
 
享年23。
 
享年23。
  
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== 関連項目 ==
  
 
* [[間瀬久太夫]](親父)
 
* [[間瀬久太夫]](親父)

2019年3月3日 (日) 23:18時点における最新版


間瀬孫九郎【ませ まごくろう】…間瀬久太夫の長男。


事件前、芝居小屋でもめたチンピラを斬り殺してしまったかどで退役。一時、浪人をしていた。1年ほど謹慎してから帰参したら「松の廊下事件」。


お家改易後、潜伏中は江戸で寿司屋をはじめる。頭に寿司桶を乗せて派手な身なりで吉良屋敷の近辺を売り歩いた。吉良邸の食い意地の張った用人達にたいそう気に入られ毎晩商いに通い、大部屋の下郎、匹夫になじみができる。貸し売りはするけど帳面はつけないし、みんなの前で「今日は宇治川の合戦でもやりますか」などと講釈をやったりするのでことごとく気に入られた。

ある日、小林平八郎が「商売をして利益に関わらざるとは怪しきヤツ」と大部屋頭・弥一右衛門に探らせる。弥一右衛門はやってきた孫九郎に「腐ったものを喰わせやがって途方もねえ道禄神だ」と言いがかりをつけて暴力をふるう。額に傷を受けて血潮を垂らしながらとにかく謝ったが「こりゃバレたかな」と思った孫九郎は用心して吉良邸まで商売に行かなくなりました。


江戸で見かけた大野九郎兵衛親子を執念深く追い続け、息子・軍右衛門を吉原土手で、逃げた大野九郎兵衛を熊谷で斬り殺し、遺髪を泉岳寺に持って行く。


その後いよいよ仇討ちの晩、潜伏中に自分を侮辱した用人、弥一右衛門を一刀の許に切り捨てた。永らく出入りをしていたので夜討ちの夜はたいそう役に立ったようであります。

「山」つって「山」と答えた吉良の家来、鳥居理右衛門と戦った。

(以上・講談)


引き揚げの最中、芝宇田川町(現・東新橋あたり)近辺で5〜6歳の子供が寄ってきて血まみれ、血みどろ血んがいの装束姿の孫九郎に「おっちゃん、だいとくれ」とリクエスト。袖紋をあげてだっこしながら自分の子供を思い出して行進を続けていると、子供のお母さんがやってきて「すいません、うちの子がどんな粗相をしたかは存じませんが生き血を吸うのだけはご勘弁下さい」とビビって嘆願した。

この子がなぜかその後も泉岳寺参りをやめないので、親の伊勢屋半兵衛(とか米屋の北国屋半三郎とか)はなにかの因縁と、泉岳寺に付け届けをしたと申します。

仮名手本忠臣蔵をもとに赤穂義士外伝を人情本的に脚色した「いろは文庫」では大高源五(大鷲文吾)のエピソードとして描かれている。)


享年23。

関連項目