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堀部安兵衛
,編集の要約なし
* 「もりい くすおの忠臣蔵文化ちゃんねる」
ホントの安さんは初代新発田藩主の溝口秀勝のひ孫に当たり、お母さんは芸者さんではなく秀勝の5女の娘でれっきとした由緒ある血筋であります。
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子供からの人気もあり、のんだくれて道ばたで眠っていると子供たちが鼻の穴に指をつっこんで起こそうとする。そういう気のおけなさ。
武器は関の孫六
<実際のパーソナル情報>
[[堀内源左衛門|小石川の堀内道場]]でメキメキ腕を上げ、高弟となり、ときどきは各藩の江戸屋敷に出かけて稽古をつけていたと言い、生活に困窮することはなかったという説があるらしい。
謹厳で学問もあり、お友達も多い。この当時まで、中山安兵衛・応庸(まさつね)という。(堀部に入ってから、武庸(たけつね)さんになります)
道場の同門、[[菅野六郎左衛門]]とはここで知り合い、意気投合して伯父・甥の契りを結ぶ。高田馬場でおじさんが決闘することになったのはほんとうだが、あとから駆けつけたのではなく、現場までは一緒にでかけているとか。安兵衛が斬り殺したのは3人。
画像:R0012172.JPG|thumb|東京、高田の馬場の碑。
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== 赤穂藩就職 ==
仇討ちの見物をしていた[[堀部弥兵衛]]の娘・[[ホリ]]が自分の緋鹿の子の扱帯(ひがのこのしごきおび)を「たすきにどうぞ」と貸してあげた縁もあり、彼の腕っ節に惚れた弥兵衛はすっかり安兵衛を気に入り、八丁堀地蔵橋の長屋におもむく。
ある日弥兵衛が娘を連れてきたとき「大名の使者なら会わないが、婦人なら面会する」と言ったのが運のツキ。以降、連日の弥兵衛の「婿に来てはくださるまいか」という猛烈アピールを浴びることとなる。