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忠臣蔵 花の巻雪の巻

191 バイト追加, 2024年4月21日 (日)
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註04…最初の記述から8年ほど経って、あらためて観ますと、高田の結末と本筋とのカラミが実にみごとで、そのあとのシーンとの流れもうまく機能していて、いまは好き。註04…最初の記述から8年ほど経って、あらためて観ますと、[[高田郡兵衛|高田]]の結末と本筋とのカラミが実にみごとで、そのあとのシーンとの流れもうまく機能していて、いまは好き。
ただ「大石東下り」は未だに気になる上に、よく見ると削除されたシーンがあるんじゃないか?。などと思ったりもした。そういう部分も違和感を生んでるんじゃないかと。
こうした「削除されたのかな?」と思わせるシチュエーションはほかにも、たとえば安兵衛が玄蕃と飲んでて赤穂浪人の悪口を言ったであるとか、台詞ベースだけで存在しないシーンがいくつかある。最初わたしは適度なランニングタイムにするために相当な削除がなされていると想像していた。
ところが、当時のシナリオの決定稿を取り寄せて確認してみると、あにはからんや「宿屋(脚本では”本陣"としてある)の主人にまんまとごまかされる役人」たちがごちそうされるシーンはもともと存在せず、ト書きに「荒賀たち役人、出て行く。少し酒が入っているらしい。」とあるだけ。ついでに言うと、自分を親の仇と付け狙う若者の名前を三平がなぜ知ってたかとか、先述の安兵衛が玄蕃に言う「赤穂浪人の悪口をほざいた」というシーンも、カットされたのではなくそもそも脚本に無い。短いシチュエーションやセリフから「推して知れ」ということだった。としてある)の主人にまんまとごまかされる役人」たちがごちそうされるシーンはもともと存在せず、ト書きに「荒賀たち役人、出て行く。少し酒が入っているらしい。」とあるだけ。ついでに言うと、自分を親の仇と付け狙う若者の名前を[[萱野三平]]がなぜ知りえたのかとか、先述の[[堀部安兵衛|安兵衛]]が[[俵星玄蕃|玄蕃]]に言う「赤穂浪人の悪口をほざいた」というシーンも、カットされたのではなくそもそも脚本に無い。短いシチュエーションやセリフから「推して知れ」ということだった。(昭和の映画っぽいなー)
で、じつは、モリシゲが役人を煙に巻いたあと女房と二人でいるシーンが脚本ではもう少しやり取りが長く、内蔵助に白紙を見せられたときの斟酌や決心。自分が正しいことをしたという気持ちを女房に打ち明けている。
もっと言うとモリシゲと淡路恵子の本陣のシークエンスは、シナリオ上ではラストも飾っている。
夫婦は雲水(行脚の僧)となった寺坂吉右衛門(生きてた!但馬に向かう途中なのである。)を見送ったあと、生まれた赤ん坊に「お前の代になったら、この話は大きな声で話せるようになるぞ」と語りかけている。夫婦は雲水(行脚の僧)となった[[寺坂吉右衛門]](生きてた!但馬に向かう途中なのである。)を見送ったあと、生まれた赤ん坊に「お前の代になったら、この話は大きな声で話せるようになるぞ」と語りかけている。
シナリオでは序盤…中盤…終盤と、定期的に大衆代表のモリシゲ夫婦が出てくることで、彼らの有用性と時間の経過。また赤穂事件が後世にまで語り継がれる未来について言及して、作品全体を柔らかくまとめる役割がかなり重たく働いているのに、中盤を一部削除してラストをまるまるカットすることで、ひじょうに中途半端な…それどころか違和感まで残すクオリティになってしまっている。 シナリオでは序盤…中盤…終盤と、定期的に大衆代表のモリシゲ夫婦が出てくることで、彼らの有用性と時間の経過。また赤穂事件が後世にまで語り継がれる未来について言及して、作品全体を柔らかくまとめる役割がかなり重たく働いているのに、中盤を一部削除してラストをまるまるカットすることで、ひじょうに中途半端な…それどころか違和感まで残すクオリティになってしまっている。あれば本作の個性が、より際立った気がする。
ただ、このモリシゲのシーンは、2022年7月。国立映画アーカイブ(長瀬記念ホール ozu)の「東宝の90年 モダンと革新の映画史」で上映されたとき、ほかのおおぜいの観客(東宝映画やスターをこころえていて、金語楼や脱線トリオが出てくるだけで笑える世代)と一緒に見ていると、印象がかなり違った。
「モリシゲが"東下りみたいなことをしている"」ということで用意されたシチュエーションを映画館では観客はすんなり受け入れ、理屈を超越したなにかが場内で成立するのだ。これはお茶の間でDVDで見ているだけでは見つからない効果である。」ということで用意されたシチュエーションを映画館では観客はすんなり受け入れ、理屈を超越したなにかが場内で成立しているのだ。これはお茶の間でDVDで見ているだけでは見つからない効果である。
そうした役者の存在感にまかせて削除シーンをカバーする手法もアリと言えばアリだが、今回のように、映画全体の印象を変える編集は、脚本家やモリシゲにとっては残念なことではなかっただろうか。そうした、役者の存在感にまかせて削除シーンをカバーする手法もアリと言えばアリなのだろうが、今回のように、映画全体の印象を変える編集は、脚本家やモリシゲにとっては残念なことではなかっただろうか。
<付言>ちなみに、モリシゲが院使の書いたサインを見せて役人を騙すシーンをディスりましたが、旭堂南湖先生の講談「大石東下り」に近衛関白の直筆、というものが権威あるアイテムとして登場してたんで、この映画のシチュエーションもあながち「設定が弱い」などと言いきれない。

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