それよりも、モリシゲが役人を煙に巻いたあと女房と二人でいるシーンは脚本ではもう少しやり取りがあって、内蔵助に白紙を見せられたときの真意や決心。自分が正しいことをしたという気持ちを吐露している。
森繁久彌と淡路恵子の宿屋(本陣)のシークエンスは、シナリオ上ではラストも飾っていて、けっこうなキーパーソン扱いだ。夫婦は雲水(行脚の僧)となった寺坂吉右衛門(但馬に向かう途中。生きてた!)を見送ったあと、生まれた赤ん坊に「お前の代になったら、この話は大きな声で話せるようになるぞ」と語りかけている。<このラストはあったほうが良かったんじゃないかなあ。森繁久彌と淡路恵子の宿屋(本陣)のシークエンスは、シナリオ上ではラストも飾っていて、けっこうなキーパーソン扱いだ。夫婦は雲水(行脚の僧)となった寺坂吉右衛門(生きてた![[石束源五兵衛|但馬]]に向かう途中なのである。)を見送ったあと、生まれた赤ん坊に「お前の代になったら、この話は大きな声で話せるようになるぞ」と語りかけている。 シナリオ段階の宿屋夫婦には狂言回しのような機能があったので、真ん中の省略とラストの削除は、結局のところ登場シーンを中途半端にし違和感を残す構成にしてしまったと思う。