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忠臣蔵(大映)

602 バイト追加, 2026年1月22日 (木)
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{{Cinema|制作=大映|公開=1958|内蔵助=長谷川一夫|星=4|頃=}}
[[画像:Katsu_sdaiei_cyusingura.jpg|thumb|役者絵:勝 新太郎]][[画像:okano00.jpg|thumb|役者絵:鶴田浩二公開当時のパンフレット]]
映画生活三十余年の長谷川一夫が、はじめて内蔵助をやった映画で(判官は7回やっている)、さらに創立以来18年、大映(この頃、やや不振)がはじめて「忠臣蔵」を本格的に映画化した作品だとか(外伝、銘々伝系はあった)。
だがそのスピードに当時若手のスター・市川雷蔵=[[浅野内匠頭]]も巻き込まれてしまうが、とはいえ、切腹までとりあえずワンマンショーばりに約30分間"'''でずっぱり'''"ではある。
雷蔵曰く「内匠頭はアホやないかと思うんです。そこをいかに清潔で正義感で家来思いで愛妻家で、こんな人が切腹させられるなんて!と観客に思わせなくてはいけない。」(別冊近代映画 雷蔵曰く「内匠頭はアホやないかと思うんです。そこをいかに清潔で正義感で家来思いで愛妻家で、こんな人が切腹させられるなんて!と観客に思わせなくてはいけない。」<small>(別冊近代映画 '58)</small>
そうして仕上がった彼の浅野内匠頭は素敵だが、シンが強そうなのでとことん「かわいそう」には見えない。切腹のときも無刀無言で面会が許されてるはずの[[片岡源五右衛門]]と、あっさり会話してるしw。
これらのエピソードのおかげで東映や東宝に比べて本作品は、'''講談色が濃い'''。
もともと渡辺邦男監督は「ひねくれた解釈なしに、誰にでもよくわかり、面白く見られる、言うなれば「講談忠臣蔵」を作りたいと思っている」と語っていたそうです。(別冊近代映画 もともと渡辺邦男監督は「ひねくれた解釈なしに、誰にでもよくわかり、面白く見られる、言うなれば「講談忠臣蔵」を作りたいと思っている」と語っていたそうです。<small>(別冊近代映画 '58)</small>
大映でメガホンを取るのは初めての渡辺監督は、いったんは大映常務の松山英夫([[忠臣蔵 地の巻/天の巻天の巻/地の巻|日活時代にバンツマで忠臣蔵]]を成功させている)の直々のオファーを断っているが、松山の「講談調の忠臣蔵を…」の、言葉に動かされたという。(昭和33年「アサヒ芸能」NOを成功させている)の直々のオファーを断っているが、松山の「講談調の忠臣蔵を…」の、言葉に動かされたという。<small>(昭和33年「アサヒ芸能」No.614)</small>
結果、本作は奥することなく正調忠臣蔵を言っていい作品には仕上がっているが、いささか泥臭い。講談ということになれば登場人物も多くなるので、"早撮り"で定評の監督にお座敷がかかったわけで、ご当人も納得の登板となったわけである。<small>(「時代映画」No.35)</small> 結果、本作は奥することなく正調忠臣蔵を言っていい作品には仕上がっているが、いささか泥臭い。(ちなみに脚本家は3人いるが特に八尋 不二(やひろ ふじ)は「僕は本当は歴史映画の忠臣蔵をやりたい」と語っている。<small>(「時代映画」No.35)</small>)
忠臣蔵系ではこの翌年「[[薄桜記]]」に出るが、1960年にめでたく座頭市の原型「不知火検校」を演って、1961に「[[ドドンパ酔虎伝]]」やったあと(もちろんほかにもいっぱい出てますよ)遂に1962年、ライフワークとなる「座頭市物語」のリリースに至る。おめでとうございます。
 
 
 
製作:永田雅一/脚本:八尋不二 民門敏雄 村松正温 渡辺邦男/監督:渡辺邦男
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画像:daieiKatsu_s.jpg|thumb|演出中の渡辺監督。アサヒ芸能より。役者絵:勝 新太郎画像:okano00.jpg|thumb|役者絵:鶴田浩二
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