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忠臣蔵 花の巻雪の巻

640 バイト追加, 2024年11月26日 (火) 05:38
編集の要約なし
== 当時の評価 盛り込まれたかった裏設定 ==[[画像:scenario.jpg|thumb|シナリオ決定稿]]
 この作品は、これまで他社(東映や大映)の忠臣蔵映画の興行成績が首位だったのに比べると、公開当時、かろうじてベストテンに入っているものの下位で振るわず、『キネマ旬報』誌上では「柄にもない」「まともすぎる」と酷評されていたそうである。
 この作品は、これまで他社(東映や大映)の忠臣蔵映画の興行成績が首位だったのに比べると、公開当時、かろうじてベストテンに入っているものの下位で振るわず、『キネマ旬報』誌上では「柄にもない」「まともすぎる」と酷評されていたそうである。 (そうは言っても、不振の映画界において当時、東宝は一人勝ち状態<small>(註06)</small>だったので、会社の隆盛期に作る作品…というセオリーには乗っかっているが。)   だが、完成品には無いシーンがシナリオには存在し、もしもそれが映像化されていたら、他社の忠臣蔵とは一線を画す作品になっていたのでは?と思われる。  森繁久彌演じる本陣(宿屋)の主人(以下モリシゲ)と淡路恵子の夫婦が、実は重要なキーパーソンになっていたのだ。 
 そうは言っても、不振の映画界において当時、東宝は一人勝ち状態 もともと『大石東下り』的な本陣のシーンは消化不良感があり、削除されたシーンがあるのではないかと感じた。<small>(註06)(註07)</small>だったので、会社の隆盛期に作る作品…というセオリーには乗っかっている。
 大石内蔵助は、[[垣見五郎兵衛]]でも[[立花左近]]でもない、尾花光忠という、聴いたこともない人物の名(個人の感想です)を語って東下りをするのだが、そこにホンモノの尾花光忠が現れて「いつもの」勧進帳的なパターンになるのではなく、宿屋に尾花と面識のある地元の役人が会いに来る。これを宿屋の主人であるモリシゲが間に入って、玄関先で食い止め、大石に会わせまいとするのだが、その手管(先年に宿泊した院使にお小遣いを工面した際に礼にもらったサインを役人に見せて有無を言わせない)と、大石をかばおうとする根拠がこっちにいまいち伝わってこず、ラフプレーに見えてちょっと弱い。
 まんまとごまかされて宿屋をあとにする役人だが、その際になぜかみな、酔っ払っている。おそらく、たらふくごちそうをされて煙に巻かれたのだろうと予想できるが、そのシーンが無いのだ。
 そこを不審に思ってシナリオに目を通してみると、じつは脚本では、役人を丸め込んだあとの、モリシゲと女房とのやり取りがもう少し長く、そこでは内蔵助に白紙を見せられたときの斟酌や決心。自分が正しいことをしたという気持ちを打ち明けている。
「白紙(しらかみ)の目録を見せられたとき、わたしはピン!ときたんだ。大石さまは、日本中の人間が思わずそうだ!と手を叩くようなことをしようとしておられるのだ。はっきりそんな気がしたんだ」
== 註釈 ==[[画像:scenario.jpg|thumb|シナリオ決定稿]] 役人を騙すという暴挙に出た理由をしっかり吐露させているのである。あとで役人に嘘がバレて咎められ、本陣が休業に追い込まれるかもしれないリスクも承知の上で、使命感にかられて突っ走り、女房が妊娠してることに希望を託して自我を保っているシーンがちゃんと用意されている。それなら納得だ。
 そしてさらに、モリシゲと淡路恵子の本陣のシークエンスは、シナリオ上ではラストも飾っている。
 夫婦は雲水(行脚の僧)となった[[寺坂吉右衛門]](生きてた!但馬に向かう途中なのである。)を見送ったあと、生まれた赤ん坊に「お前の代になったら、この話は大きな声で話せるようになるぞ」と語りかけている。
註01…ちなみにこのへんの配役については古い週刊文春にあるのだが、藤田進、小林桂樹などがこぞってやりたがった役が、有島一郎のやった[[多門伝八郎]]だったという。有島の多門は監督の推しだったそうだが、やりたがってる役者がいるならやらせてあげて、個人的には有島一郎あたりには[[堀部弥兵衛]]をやって欲しかった。(ちなみに有島はのちに[[大忠臣蔵(NET)|「ミフネ版」]]や「[[元禄太平記]]」で弥兵衛を演じる。) シナリオでは序盤…中盤…終盤と、定期的に大衆代表のモリシゲ夫婦が出てくることで時間の経過、または赤穂事件が後世にまで語り継がれる未来について言及して、作品全体を柔らかくまとめる有益な役割がかなり重たく働いているのに、中盤を一部削除してラストをまるまるカットすることで、ひじょうに中途半端な…それどころか違和感まで残すクオリティになってしまっている。あれば本作の個性は「まともすぎる」などと言われる筋合いのない、より際立った作品として残った気がする。
 本作で[[堀部弥兵衛]]を演じている小杉義男は黒澤映画にも本多猪四郎作品にもご常連のベテランなのだが、大部屋さんの印象があり、東映では薄田研二さんがやってる役どころを、名バイプレイヤーの小杉さん(好きだけど)…というのは、もりいが忠臣蔵ビギナーだった頃からの違和感。有島が無理ならふだん東宝映画に貢献している東野英治郎や左卜全が出演していないが、彼らあたりでどうにかならなかったのだろうか?(こういうことでで悩むのが、好き)  …<附言>ただ、小杉さんは、同じく東宝の「[[四十八人目の男]]」で、[[堀部安兵衛|安兵衛]]を演じてることを思うと、父子両方を演じためずらしい役者になる。 …とは言うものの、2022年7月。国立映画アーカイブ(長瀬記念ホール ozu)の「東宝の90年 モダンと革新の映画史」で本作が上映されたとき、このモリシゲのシーンは、ほかのおおぜいの観客(東宝映画やスターをこころえていて、金語楼や脱線トリオが出てくるだけで笑える世代)と一緒に見ていると、印象がかなり違った。
 「そこはやっぱ三船でしょう。若いったってねえ、翌年に『赤ひげ』撮ってるんだし(公開は延びて'65に)」と春日太一さんとご一緒したときおっしゃってた。ちなみに氏のごひいきは「[[赤穂浪士 天の巻・地の巻]]('56)」。(この「花の巻雪の巻」は「雑」と言ってた笑。何シーンか討ち入りが昼間だし、東宝歌舞伎のことがあってしょうがないけど白鸚キャスティングにも一家言。)「モリシゲが"東下りみたいなことをしている"」ということだけで用意されたシチュエーションを映画館では観客はすんなり受け入れ、笑っている。そこには理屈を超越したなにかが場内で成立していた。これはひとりお茶の間でDVDを見ているだけでは見つからない効果である。
 ちなみに東宝娯楽映画といえばクレイジーキャッツの映画シリーズも忘れてならないが、1本目の「ニッポン無責任時代」が本作と公開年が同じで、その後人気シリーズとして東宝の屋台骨を支えるものの、そもそもは「添え物映画(2本立て興行のB面的な作品)」であり、この時点では東宝映画への貢献は無いのでクレイジーのメンバーの出演は無い。数カ月後に本作の公開が控えてるので宣伝を意識してか、夏公開の「ニッポン無責任時代」には「忠臣蔵」というワードが数回出てくる。 そうした、役者の存在感にまかせて削除シーンをカバーする手法もアリと言えばアリなのだろうが、今回のように、映画全体の特色を変えてしまうような編集は、脚本家やモリシゲにとって残念なことではなかったろうか。
(加筆)ちなみに「ニッポン無責任時代」はこの年の夏の興行成績1位となった。<small>(2024.7.8放送「アナザーストーリー天下の無責任男!〜植木等とその時代〜」)</small>
<付言>ちなみに、モリシゲが院使の書いたサインを見せて役人を騙すシーンをディスりましたが、旭堂南湖先生の講談「大石東下り」に近衛関白の直筆、というものが権威あるアイテムとして登場してたんで、この映画のシチュエーションもあながち「設定が弱い」などと言いきれない。
註02…・Wikipediaでは、劇伴にゴジラのテーマのモジリがあると、わざわざ説明しているが、ほんのちょっぴりフレーズがかぶる箇所があるだけ。ほかの伊福部作品の似た部分には触れてない。そんなこと言ったら本作のBGMなんて東映映画「徳川家康」('65)のメインテーマ曲にモジリでもなんでもなく、'''ほぼ'''まんまのメロディが使われてるのがありますし、伊福部昭先生は使い回しは日常なのであります。(そもそもゴジラのテーマは喜劇映画「社長と女店員」('49)のテーマ曲である)(ジョン・ウィリアムズでさえ「大地震」と「タワーリング・インフェルノ」で同じフレーズを使いまわしておりますし。劇伴ってそういうもんなのでしょう。)
註03,04…オープニングが勅使下向だとか、モブシーンとかは8年前の「[[忠臣蔵 花の巻・雪の巻 (松竹)]]」でも、あるっちゃあ、ある。
それにしてもまったく同じ題名でこの映画の公開前年に松竹から東宝に移籍した白鴎を内蔵助に立てて、特徴的なシーンまでかぶるというのは、なにかしら挑戦的なキナ臭さを感じる。
== 註釈 ==
註05…最初の記述から数年経って、あらためて観ますと、[[高田郡兵衛|高田]]の結末と本筋とのカラミが実にみごとで、そのあとのシーンとの流れもうまく機能していて、いまは好き。
ただ「大石東下り」は未だに気になる上に、よく見ると削除されたシーンがあるんじゃないか?。などと思ったりもした。そういう部分も違和感を生んでるんじゃないかと。註01…ちなみにこのへんの配役については古い週刊文春にあるのだが、藤田進、小林桂樹などがこぞってやりたがった役が、有島一郎のやった[[多門伝八郎]]だったという。有島の多門は監督の推しだったそうだが、やりたがってる役者がいるならやらせてあげて、個人的には有島一郎あたりには[[堀部弥兵衛]]をやって欲しかった。(ちなみに有島はのちに[[大忠臣蔵(NET)|「ミフネ版」]]や「[[元禄太平記]]」で弥兵衛を演じる。)
大石内蔵助は、 本作で[[垣見五郎兵衛堀部弥兵衛]]でもを演じている小杉義男は黒澤映画にも本多猪四郎作品にもご常連のベテランなのだが、大部屋さんの印象があり、東映では薄田研二さんがやってる役どころを、名バイプレイヤーの小杉さん(好きだけど)…というのは、もりいが忠臣蔵ビギナーだった頃からの違和感。有島が無理ならふだん東宝映画に貢献している東野英治郎や左卜全が出演していないが、彼らあたりでどうにかならなかったのだろうか?(こういうことでで悩むのが、好き)  …<附言>ただ、小杉さんは、同じく東宝の「[[立花左近四十八人目の男]]でもない、尾花光忠という、聴いたこともない人物の名(個人の感想です)を語って東下りをするのだが、そこに本物の尾花光忠が現れて「いつもの」パターンになるのではなく、宿屋に尾花と面識のある地元の役人が会いに来る。これを宿屋の主人である森繁久彌演じる主人(以下モリシゲ)が間に入って、大石に会わせまいとするのだが、その手管(先年に宿泊した院使にお小遣いを工面した際に礼にもらったサインを役人に見せて有無を言わせない)と、大石をかばおうとする根拠が伝わってこず、ラフプレーに見えてちょっと弱い。」で、[[堀部安兵衛|安兵衛]]を演じてることを思うと、父子両方を演じためずらしい役者になる。
まんまとごまかされて宿屋をあとにする役人だが、その際になぜかみな、酔っ払っている。おそらく、たらふくごちそうをされて煙に巻かれたのだろうと予想できるが、そのシーンが無いのだ。 「そこはやっぱ三船でしょう。若いったってねえ、翌年に『赤ひげ』撮ってるんだし(公開は延びて'65に)」と春日太一さんとご一緒したときおっしゃってた。ちなみに氏のごひいきは「[[赤穂浪士 天の巻・地の巻]]('56)」。(この「花の巻雪の巻」は「雑」と言ってた笑。何シーンか討ち入りが昼間だし、東宝歌舞伎のことがあってしょうがないけど白鸚キャスティングにも一家言。)
こうした「削除されたのかな?」と思わせるシチュエーションはほかにも、たとえば[[堀部安兵衛]]が[[俵星玄蕃]]と飲んでて赤穂浪人の悪口を言ったであるとか、台詞ベースだけで存在しないシーンがいくつかある。 ちなみに東宝娯楽映画といえばクレイジーキャッツの映画シリーズも忘れてならないが、1本目の「ニッポン無責任時代」が本作と公開年が同じで、その後人気シリーズとして東宝の屋台骨を支えるものの、そもそもは「添え物映画(2本立て興行のB面的な作品)」であり、この時点では東宝映画への貢献は無いのでクレイジーのメンバーの出演は無い。数カ月後に本作の公開が控えてるので宣伝を意識してか、夏公開の「ニッポン無責任時代」には「忠臣蔵」というワードが数回出てくる。
ところが、当時のシナリオの決定稿を取り寄せて確認してみると、あにはからんや「宿屋(脚本では”本陣"としてある)の主人にまんまとごまかされる役人」たちがごちそうされるシーンはもともと存在せず、ト書きに「荒賀たち役人、出て行く。少し酒が入っているらしい。」とあるだけ。ついでに言うと、自分を親の仇と付け狙う若者の名前を[[萱野三平]]がなぜ知りえたのかとか、先述の[[堀部安兵衛|安兵衛]]が[[俵星玄蕃|玄蕃]]に言う「赤穂浪人の悪口をほざいた」というシーンもカットされたのではなく、そもそも脚本に無い。短いシチュエーションやセリフから「推して知れ」ということだった。(昭和の映画っぽいなー)(加筆)ちなみに「ニッポン無責任時代」はこの年の夏の興行成績1位となった。<small>(2024.7.8放送「アナザーストーリー天下の無責任男!〜植木等とその時代〜」)</small>
で、じつは、モリシゲが役人を煙に巻いたあと女房と二人でいるシーンが脚本ではもう少しやり取りが長く、内蔵助に白紙を見せられたときの斟酌や決心。自分が正しいことをしたという気持ちを女房に打ち明けている。
「白紙(しらかみ)の目録を見せられたとき、わたしはピン!ときたんだ。大石さまは、日本中の人間が思わずそうだ!と手を叩くようなことをしようとしておられるのだ。はっきりそんな気がしたんだ」
役人を騙すという暴挙に出た理由をしっかり吐露させているのである。あとで役人に嘘がバレて咎められ、本陣が休業に追い込まれるかもしれないリスクも承知の上で、ちょっとメシア症候群みたいに突っ走り、女房が妊娠してることに希望を託して自我を保っているシーンがちゃんと用意されている。それなら納得だ。註02…・Wikipediaでは、劇伴にゴジラのテーマのモジリがあると、わざわざ説明しているが、ほんのちょっぴりフレーズがかぶる箇所があるだけ。ほかの伊福部作品の似た部分には触れてない。そんなこと言ったら本作のBGMなんて東映映画「徳川家康」('65)のメインテーマ曲にモジリでもなんでもなく、'''ほぼ'''まんまのメロディが使われてるのがありますし、伊福部昭先生は使い回しは日常なのであります。(そもそもゴジラのテーマは喜劇映画「社長と女店員」('49)のテーマ曲である)(ジョン・ウィリアムズでさえ「大地震」と「タワーリング・インフェルノ」で同じフレーズを使いまわしておりますし。劇伴ってそういうもんなのでしょう。)
もっと言うとモリシゲと淡路恵子の本陣のシークエンスは、シナリオ上ではラストも飾っている。
夫婦は雲水(行脚の僧)となった[[寺坂吉右衛門]](生きてた!但馬に向かう途中なのである。)を見送ったあと、生まれた赤ん坊に「お前の代になったら、この話は大きな声で話せるようになるぞ」と語りかけている。
シナリオでは序盤…中盤…終盤と、定期的に大衆代表のモリシゲ夫婦が出てくることで時間の経過、または赤穂事件が後世にまで語り継がれる未来について言及して、作品全体を柔らかくまとめる有益な役割がかなり重たく働いているのに、中盤を一部削除してラストをまるまるカットすることで、ひじょうに中途半端な…それどころか違和感まで残すクオリティになってしまっている。あれば本作の個性が、より際立った気がする。註03,04…オープニングが勅使下向だとか、モブシーンとかは8年前の「[[忠臣蔵 花の巻・雪の巻 (松竹)]]」でも、あるっちゃあ、ある。
ただ、このモリシゲのシーンは、2022年7月。国立映画アーカイブ(長瀬記念ホール ozu)の「東宝の90年 モダンと革新の映画史」で上映されたとき、ほかのおおぜいの観客(東宝映画やスターをこころえていて、金語楼や脱線トリオが出てくるだけで笑える世代)と一緒に見ていると、印象がかなり違った。それにしてもまったく同じ題名でこの映画の公開前年に松竹から東宝に移籍した白鴎を内蔵助に立てて、特徴的なシーンまでかぶるというのは、なにかしら挑戦的なキナ臭さを感じる。
「モリシゲが"東下りみたいなことをしている"」ということで用意されたシチュエーションを映画館では観客はすんなり受け入れ、理屈を超越したなにかが場内で成立しているのだ。これはお茶の間でDVDで見ているだけでは見つからない効果である。
そうした、役者の存在感にまかせて削除シーンをカバーする手法もアリと言えばアリなのだろうが、今回のように、映画全体の印象を変える編集は、脚本家やモリシゲにとっては残念なことではなかっただろうか。
<付言>ちなみに、モリシゲが院使の書いたサインを見せて役人を騙すシーンをディスりましたが、旭堂南湖先生の講談「大石東下り」に近衛関白の直筆、というものが権威あるアイテムとして登場してたんで、この映画のシチュエーションもあながち「設定が弱い」などと言いきれない。註05…最初の記述から数年経って、あらためて観ますと、[[高田郡兵衛|高田]]の結末と本筋とのカラミが実にみごとで、そのあとのシーンとの流れもうまく機能していて、いまは好き。
註06…前述の黒澤映画「天国と地獄」もだが、「キングコング対ゴジラ」もこの年公開の東宝創立30周年記念映画である。
 
 
註07…こうした「削除されたのかな?」と思わせるシチュエーションはほかにも、たとえば[[堀部安兵衛]]が[[俵星玄蕃]]と飲んでて赤穂浪人の悪口を言ったであるとか、台詞ベースだけで存在しないシーンがいくつかある。
 
 ところが、当時のシナリオの決定稿を取り寄せて確認してみると、あにはからんや「宿屋(脚本では”本陣"としてある)の主人にまんまとごまかされる役人」たちがごちそうされるシーンはもともと存在せず、ト書きに「荒賀たち役人、出て行く。少し酒が入っているらしい。」とあるだけ。ついでに言うと、自分を親の仇と付け狙う若者の名前を[[萱野三平]]がなぜ知りえたのかとか、先述の[[堀部安兵衛|安兵衛]]が[[俵星玄蕃|玄蕃]]に言う「赤穂浪人の悪口をほざいた」というシーンもカットされたのではなく、そもそも脚本に無い。短いシチュエーションやセリフから「推して知れ」ということだった。(昭和の映画っぽいなー)