差分

提供: Kusupedia
移動先: 案内検索

つか版・忠臣蔵

2,584 バイト追加, 2021年7月24日 (土) 13:17
編集の要約なし
あと、アレですな。音楽の趣味といっしょで、やはり性に合う、あわないっていうのありますもので、つかこうへいさんの、がに股でケツまくって「オイッ!!」とやるような芸風というかニュアンス?というか、は、ちょっとあたし、苦手かも。
== 総括「つか版」について ==
 
「つか版忠臣蔵」は、演出面や演技面で相当なパワーを持って、理屈抜きで有無を言わせず観客をグイグイ引っ張っていかないと、スクリプトのほころびが目立つ…という特徴があるのではないかと、2020年版の若い衆の芝居のおかげで、そう持った。
 
いや、若い衆の芝居(↑上述の木馬亭版)自体は瑞々しくて悪くなかったです。これはマジで。
 
でも、見ながら何度も「こんな話だったっけ」と思ったものだった。
 
 
某大学助教授が、テレビ初公開時の「國文學」(s61)に寄せた本作の原作のレビューで「つかこうへいは、井上ひさしのように"調べ尽くすことが作品の成り立ちに不可欠"とは、思っていない」<small>(註01)</small> 「いちいち調べて書いてるようでは、せっかくのナマ物にカビが生えてしまいまんがな…という台詞は作者自身の考え」と概略そのように指摘している。
 
まったくそのとおりだなと思った。
 
これをカバーするのが、おっぱい丸出しを含む(<誤解承知)、役者が元気にセリフを言って跳ねまわる(<誤解承知)「いきおい」なんじゃないかと。それがつか作品の魅力というものなんじゃないのかなと。だって、台本は稽古のたびに変わるっていう(まさにナマ物)んだから、40年近く前に出来上がった台本を使った時点で「つか作品」とは言えないのかもしれない。
 
空間全部を以って「つか作品」というなら、彼が演出しないと「つか版」という看板は成り立たないんじゃないだろうか。
 
 
Wikiにつか作品の特徴について「場面転換は一切暗転を使わず、突然流れ出す大音量の音楽と歌。それに合わせて突如踊り出す派手なダンス。観客は一瞬何が始まったのかと唖然としている間に次の場面が始まる。」とある。なるほど。木馬亭のは全然コレじゃなかった。
 
 
忠臣蔵にハマるまで、芝居を見に出かける習慣がなかったもりいくすおといたしましては、ご存命中に先生の演出した舞台を観られなかったのが、悔やまれる。
 
 
(附言:でもなぁ。ご自身でノベルスをリリースされてるからなあ。スクリプトには、自信がおありになったって言うことなのかなぁ…。で、本作に関してはコレ、テレビで見るために生まれた作品なんでね。舞台うんぬんは、そんなに追求しなくてもですね。)
 
 
 
 
註01…「[[イヌの仇討]]」を見る限りでは、「調べ'''つくしてる'''」とは言えない部分は少なくない。
[[Category:くすおの忠臣蔵作品評|1982]]

案内メニュー