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つか版・忠臣蔵

9,661 バイト追加, 2021年7月24日 (土) 13:17
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{{Cinema|制作=テレビ東京|公開=1982|内蔵助=平田満/岡本麗|星=2|頃=}}
原作、脚本、演出つかこうへい。
ドタバタ喜劇と紹介されてるんだけど…。
この頃って「8時だヨ!全員集合!」や「吉本新喜劇」がすたれ始めて、特に舞台で表現される笑いは迷走状態。そしてアングラ演劇が再注目されていた。ビデオパッケージにはドタバタ喜劇と紹介されてるんだけど、本作品はもっとシニカルなテーマをぶちまけている。
本作はまさにそのアングラ喜劇芝居を見てるような感じで、観客を楽しませようというサービスよりも演じてるほうが気持ちよがってる印象が強い。なんか役者の芝居の自習を延々と見せられてる感じ。「コメディアンが客を笑わせようとしてる」のではなく、「利口そうな役者が「喜劇」という課題をクリアしようと一生懸命になって汗をかいている」かんじ。これじゃ笑えない。忠臣蔵を語る時に忘れてはならない「史実」と「虚構」であります。
のべつ役者がぎゃーぎゃー言ってるか、とぼけたふうの台詞のキャッチボールを繰り返す「つか」ワールド。ゆとりが無い。「元禄赤穂事件」VS「忠臣蔵」 とはいえ、カタチだけ赤穂事件のアウトラインを借りてるだけで、そのほとんどがオフザケに演出され(瑤泉院が売春したり、メチャクチャ)、とにかく「とるにたらないことだって戯曲化されることによってこういうふうに盛り上がるのだ」という、そっちがメインになっている。 見てるほうの体温が2度ほど上がる、強壮剤みたいな不思議な効力があるドラマ(<イイ意味でも悪い意味でも)だが、「喜劇」と言うには、ところどころユーモラスなだけで、まったく爆笑にはつながっていない。あくまで忠臣蔵やお笑いを楽しむと言うより「つかこうへいワールド」を楽しむために生まれてきた作品。(ごひいきに言わせれば、"いいころ"の作品である。)  「廊下フェチ」で少し足りない浅野内匠頭が梶川与惣兵衛につきとばされたハズミで小刀を抜いてしまい、そこにいた吉良をケガさせる。江戸在勤の家老・内蔵助は切腹が決まった文盲の内匠頭のために[[宝井其角]]に辞世を依頼する。吉良も赤穂浪士も大間抜けばかり。 失恋でへこんでいた其角はこれをきっかけに事件を美談の芝居にしようと奮起し、上方の近松門左衛門に会いにいく。 この物語は風間杜夫演じる宝井其角(ここでは劇作家)の青春ストーリー。  うっかり本作品を「忠臣蔵」を見るつもりで見てしまうとつかの「おうおう!ほかには無いだろこんなアプローチ!オレならこうするぜ!」というケレン味にびっくりしてしまい、以降、青筋立てて勉強してる片手間にセックスしてるつかを見せられてるような居心地の悪ささえ感じてしまう。 役者も'''観客を楽しませようというサービスよりも、つかこうへいを喜ばせようとがんばってる'''かんじで、こっちは「"喜劇"という課題をクリアしようと一生懸命になって汗をかいている」芝居の特訓を延々と見せられてるよう。 風間杜夫が慢性的に汗と涙とツバでベチョベチョになりながら、'''必死でひたむきなのが気の毒'''で、松坂慶子が素直な態度でがんばってるのがかいがいしい。  とどのつまり、これは「つかファン向け」で「大衆向け」ではない。
風間杜夫が慢性的に必死でひたむきなのが気の毒で、松坂慶子が素直な態度でがんばってる。
放送の2ヶ月前に公開された映画「蒲田行進曲」もそんな印象だったなあ。これって「おなじみ」な芸風で、ファンは「待ってました」てかんじで嬉しかったんだろうか。
劇中劇の大石内蔵助=岡本麗が印象によかった。
つかこうへいの個性と仕事ぶりには敬意を表して星ふたつ。あとで考えると彼女だけ「忠臣蔵」していたからだと思う。ヒイキにとってはどんなよくできた作品でも結局「忠臣蔵をやってる」部分がパーッと映えて見えるのだ。たとえば「[[薄桜記]]」も傑作だが、結局主役よりも赤穂浪士のカツシン(助演)に涙してしまう。  時代はこのあと、80年代半ばからバブルにかけて小劇団やアングラ演劇の人気がグイグイ出始め、おいやられるように「8時だヨ!全員集合!」や「吉本新喜劇」がすたれてゆく。   == つか版・忠臣蔵スカイツリー篇 ==[[画像:tobiraza.jpg|thumb|チラシ]]2012年劇団扉座により、つか版・忠臣蔵がリメイクされた。 [[阿久里/瑤泉院|阿久利]](史実では赤穂に行ったこともない人だが、本作では赤穂と塩をこよなく愛しお家再興の為に奔走し、いろんなヒトとベッドインするのを辞さないキャラとなっている)が大きくクローズアップされ、浪士たちもおもしろく活躍し、笑える部分がすごく多くなってよみがえった作品。 役者さん達が魅力たっぷりで、ところどころで複数の網タイツのおねえさんが飛び出してくるのでサービスも良い。  つかさんのオリジナル版では、一応、本寸法の忠臣蔵をまっとうしてるエッセンスが混ざっていて、それはリスペクトのようでもあり、逆に皮肉とも思えたが、新作では「忠臣蔵」より「つかこうへい」をリスペクトしてる感じがした。  80年代小劇場のオマージュを2012年に持ってくる思い切りはすごいなと思った。    == つか版・忠臣蔵 ==[[画像:twt.jpg|thumb|チラシ]] 2020年パフォーマンスユニットTWTにより、リメイクされた。(第2回江戸まちたいとう芸楽祭 参加作品) 木馬亭の女将さんのお嬢さんがお出になると聞いて出かけました。根岸薫子さんは安定して素晴らしかったです。  で、平均年齢がずば抜けて若いこの人たちのお芝居(舞台あげるの早くね?というメンツもいる初々しさ。)によって、初めてこれがどういうあらすじか理解できた。 もちろん、TWT独自のアレンジもあるのだが、つかこうへいがどのくらい忠臣蔵をぶっ壊したのかをあらためて知れた、…のわ〜、なんなんだろう。 あたしが年を取って理解力が深まったのか、芝居が上記2作品に比べてケレン味が減ってるぶん集中できたのか… そうそう。おっぱい丸出しの瑤泉院(オリジナル版)や、網タイツのダンサー(扉座)は本作には一切出てこない。それで冷静でいられたのかもしれません。  であのう、長尺のお笑いってケガするからやめたほうがいいと思う。個人的見解なのではありますが、お笑いって難しいんです。とにかく。殺陣や着付けといっしょで、絶対に専門家にスーパーバイザーで入ってもらうべき。 2回、「長いな」と思う、「コント風シークエンス」がありました。(ひとつは[[吉本オールスター大行進 爆笑!大忠臣蔵|吉本の忠臣蔵]]とネタかぶってたし。<知ってか知らずか…) でもきっとね、無いと寂しいかったですね。笑えなかったけど、あったほうが、たしかに良い。    == 総括「つか版」について == 「つか版忠臣蔵」は、演出面や演技面で相当なパワーを持って、理屈抜きで有無を言わせず観客をグイグイ引っ張っていかないと、スクリプトのほころびが目立つ…という特徴があるのではないかと、2020年版の若い衆の芝居のおかげで、そう持った。 いや、若い衆の芝居(↑上述の木馬亭版)自体は瑞々しくて悪くなかったです。これはマジで。 でも、見ながら何度も「こんな話だったっけ」と思ったものだった。  某大学助教授が、テレビ初公開時の「國文學」(s61)に寄せた本作の原作のレビューで「つかこうへいは、井上ひさしのように"調べ尽くすことが作品の成り立ちに不可欠"とは、思っていない」<small>(註01)</small> 「いちいち調べて書いてるようでは、せっかくのナマ物にカビが生えてしまいまんがな…という台詞は作者自身の考え」と概略そのように指摘している。 まったくそのとおりだなと思った。 これをカバーするのが、おっぱい丸出しを含む(<誤解承知)、役者が元気にセリフを言って跳ねまわる(<誤解承知)「いきおい」なんじゃないかと。それがつか作品の魅力というものなんじゃないのかなと。だって、台本は稽古のたびに変わるっていう(まさにナマ物)んだから、40年近く前に出来上がった台本を使った時点で「つか作品」とは言えないのかもしれない。 空間全部を以って「つか作品」というなら、彼が演出しないと「つか版」という看板は成り立たないんじゃないだろうか。  Wikiにつか作品の特徴について「場面転換は一切暗転を使わず、突然流れ出す大音量の音楽と歌。それに合わせて突如踊り出す派手なダンス。観客は一瞬何が始まったのかと唖然としている間に次の場面が始まる。」とある。なるほど。木馬亭のは全然コレじゃなかった。  忠臣蔵にハマるまで、芝居を見に出かける習慣がなかったもりいくすおといたしましては、ご存命中に先生の演出した舞台を観られなかったのが、悔やまれる。  (附言:でもなぁ。ご自身でノベルスをリリースされてるからなあ。スクリプトには、自信がおありになったって言うことなのかなぁ…。で、本作に関してはコレ、テレビで見るために生まれた作品なんでね。舞台うんぬんは、そんなに追求しなくてもですね。)    註01…「[[イヌの仇討]]」を見る限りでは、「調べ'''つくしてる'''」とは言えない部分は少なくない。
[[Category:くすおの忠臣蔵作品評|1982]]

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