差分

提供: Kusupedia
移動先: 案内検索

もりいくすお

620 バイト追加, 2022年9月20日 (火) 10:11
編集の要約なし
[[画像:gozaru.jpg|thumb|2016.03月 国立演芸場楽屋にて]]
もりい くすお(男性、1965年11月23日 - )は、日本のイラストレーター。本名:森井久寿生。「作画屋」と名乗っている。<small>(<(加筆)[https://www.sonymusic.co.jp/artist/Gospellers/info/542417 アニメの仕事して]思いましたが、コレだと「アニメの作画」と誤解を招くかもですな…)</small>
[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E6%B2%A2%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80 桑沢デザイン研究所]非常勤講師。赤穂観光大使(兵庫)。港区観光大使(東京)。忠臣蔵文化愛好画家。講談「赤穂義士伝」原理主義。グラニアック(もりいの造語。鉄道マニアを意味するtrainiacから)。
* [http://blog.kusuya.net/?eid=1008 よみもの'''「怪異談 忠臣蔵'''〜ゾンビが出てくるやつ〜'''」'''](閲覧注意)
 
 
 物心ついた時からすでに絵を描くのが好きだったくすおは、幼稚園([[おニャン子版忠臣蔵|「夕ニャン」]]で'''[[浮橋太夫]]'''をやった工藤静香が編入&中退した日本音楽高等学校の付属幼稚園)の頃から「モーレツア太郎」や「帰ってきたウルトラマン」を描いておともだちに喜ばれては、得意になっていた。
 小学校に上がるや、「給食を全部食べなければ帰宅を許さない」という担任の体罰が効いて、会食恐怖症となり、元来、ひとりっ子で独占欲が強く、食い意地が張ってるはずのもりいには、この症状は卒業するまで給食が苦痛でしかなかった。いつスイッチが入るかわからない、このコンプレックス(「平らげなければいけない!」という強いプレッシャーを感じると、とたんに食べ物を飲み込めなくなる)には40歳を過ぎても苦しめられたが、忠臣蔵に目覚めた2008年、故・国本武春師匠におごってもらった成田の川豊本店のうな重を食べ残したのを最後に、なぜか(ようやく)克服できた。 小学校に上がるや、「給食を全部食べなければ帰宅を許さない」という担任の体罰が効いて、会食恐怖症となり、元来、ひとりっ子で独占欲が強く、食い意地が張ってるはずのもりいには、この症状は卒業するまで給食が苦痛でしかなかった。いつスイッチが入るかわからない、このコンプレックス(「平らげなければいけない!」という強いプレッシャーを感じると、とたんに食べ物を飲み込めなくなる)には40歳を過ぎてもときどき苦しめられたが、忠臣蔵に目覚めた2008年、故・国本武春師匠におごってもらった成田の川豊本店のうな重を食べ残したのを最後に、なぜか(ようやく)克服できた。
 雑誌の「テレビランド」や「小学四年生」「小学五年生」に投稿して絵を掲載してもらう印刷初体験をする。同時に「おはようこどもショー」のコーナーでつボイノリオの背景に絵を採用された放送電波初体験もした。(放送をした日本テレビは当時'''赤穂浪士が潜伏した麹町'''にあったが、現在、汐留の'''仙台藩芝口上屋敷跡'''にある。討ち入り後に赤穂浪士に粥を振る舞ったお屋敷である)
 アメリカの風刺雑誌MADと巡り会い、モート・ドラッカーの作風に憧れる。
 テレ東版の珍訳「ゾンビ」(いわゆるサスペリア版)に腹を立てて友人とアフレコしなおしたり、学園祭では16ミリフィルムでアニメ撮影&上映などして遊び、有楽町の日劇に日替わりの特撮映画を見に定期券を買って「ゴジラ映画大全集」に出かけるなど、オタクの一面もこの頃に育つ。 テレ東版の珍訳「ゾンビ」(いわゆるサスペリア版)に腹を立てて友人とアフレコしなおしたり、学園祭では16ミリフィルムでアニメ撮影&上映などして遊び、日替わりの特撮映画を見に定期券を買って有楽町の日劇まで「ゴジラ映画大全集」に日参するなど、オタクの一面もこの頃に育つ。(のちにアニメの脚本を多く手掛ける明大の学生当時の関島眞頼氏と毎日のように会ってるうちになつき、吉野家の牛丼をごちそうになって「この世にこんなうまいものがあるのか」と感激する。)
 やがて2005年、40代になって、若き'''[[堀部安兵衛|安兵衛]]'''が江戸に来て最初に住んだ、'''[[神崎与五郎]]'''が「美作屋善兵衛」を名乗って町民に化けていた、'''[[寺坂吉右衛門]]'''の墓のある、'''[[吉良上野介]]'''の下屋敷があり、愛人の家もあった、もりいの本籍地でもある、麻布に仕事場を引っ越し新装開店。(江戸城の鬼門から裏鬼門に引っ越したわけである)の下屋敷があり、愛人の家もあった、'''赤穂浅野家、藩祖の長友(忠臣蔵の浅野内匠頭のおじいさま)時代まで下屋敷'''があった、もりいの本籍地でもある、麻布に仕事場を引っ越し新装開店。(江戸城の鬼門から裏鬼門に引っ越したわけである)
 自宅も転宅したがそこはたまたま'''最初の江戸下向で大石が安兵衛と会談した'''、そして'''大石の命令で[[原惣右衛門]]らが作戦のために会合場所として屋敷を買った三田'''だった。ちなみに[http://blog.kusuya.net/?eid=901 イタリア大使館]('''[[大石主税]]'''や'''[[堀部安兵衛]]'''終焉の地。伊予松山藩・'''松平隠岐守の中屋敷跡'''。)の目と鼻の先。
2006年、翌年亥年の年賀状に'''[[通し狂言 仮名手本忠臣蔵|仮名手本忠臣蔵]]の五段目'''に出てくるイノシシを描こうとにわかに思いたち、友人に結婚のお祝いに似顔絵を描く代わりにと仮名手本忠臣蔵のDVDを無心。ここで初めて歌舞伎をじっくり見る(DVDだけど)。(結局年賀状は制作せず仕舞い。)
 
 
 
== 忠臣蔵WEB開店から… ==

案内メニュー