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もりいくすお

3,602 バイト追加, 2017年3月3日 (金) 21:28
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[[画像:ohisi_jinjyagozaru.jpg|thumb|20082016.11月大石神社にて]][[画像:Cafe.jpg|thumb|2008.12〜09.01忠臣蔵カフェ開催(さと和さん)にて]][[画像:Tenugui.jpg|thumb|2008年 忠臣蔵がお家芸の浪曲師・うなるカリスマ国本武春さんの手ぬぐいをデザイン]][[画像:Radio.jpg|thumb|2009年NHKラジオ番組出演。ゲストに大林素子さん、豊竹咲大夫さん]][[画像:R0013830.JPG|thumb|2010年新正堂さんより、もりいくすお画の四十七士があしらわれた「義士ようかん」発売。国芳の絵に講談や史実をアレンジした。]][[画像:isyoku.jpg|thumb|2011赤穂市より観光大使を委嘱。]][[画像:Card-1.jpg|thumb|2011年播州赤穂忠臣蔵専門グッズ店わたやさんにて、さまざまなオリジナル商品デザインをさせていただく。]][[画像:Cyo-toku-ji.jpg|thumb|2012年安兵衛の故郷は新潟・新発田の長徳寺さんや武庸会さんと昵懇に。(長徳寺・義士堂にて)]][[画像:2014ho-yo.jpg|thumb|2013~14年泉岳寺にて殿さまご法要の世話人をさせていただく。]][[画像:Ooisi-jinjya.jpg|thumb|2013.第110回赤穂義士祭参加]][[画像:Italia.jpg|thumb|2014.武庸会と皆さんとイタリア大使謁見(大使館は松平家跡)]][[画像:32.jpg|thumb|2014.フランス、ブルターニュ大公城「サムライ展」で義士絵と絵本発売。03月 国立演芸場楽屋にて]]
もりい くすお(男性、1965年11月23日 - )は、日本のイラストレーター。本名:森井久寿生。「作画屋」と名乗っている。
[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E6%B2%A2%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80 桑沢デザイン研究所]非常勤講師。赤穂観光大使。非常勤講師。赤穂観光大使。忠臣蔵文化愛好画家。
書籍、雑誌等の印刷物、テレビなどのメディアに絵を提供している。本サイトのオーナー。
<small><※プロフィールは事実ですがあくまで、本・忠臣蔵サイトの一部であり、'''かなりアブノーマル'''な構成になっていることをあらかじめご了解ください。忠臣蔵関連は太字になっておりますw。></small>
== 忠臣蔵的・生い立ち/履歴 ==
 
<small><※以下のプロフィールは事実ですがあくまで、本・忠臣蔵サイトの一部であり、'''かなりアブノーマル'''な構成になっていることをあらかじめご了解ください。忠臣蔵関連は太字になっておりますw。></small>
品川と言うと聞こえが良いが最寄りは'''[[片岡源五右衛門|片岡源五右衛門を演じた郷ひろみ]]'''や'''[[大石内蔵助|大石内蔵助を演じた真田広之]]'''の育った大井町である。
ちなみに誕生日は'''[[不破数右衛門]]'''を演じた田中邦衛や綿引勝彦と同じ勤労感謝の日。元禄14年、江戸会議で内蔵助がみんなをなだめたあと、赤穂へ発った日。を演じた田中邦衛や綿引勝彦と同じ勤労感謝の日。'''元禄14年、江戸会議で内蔵助がみんなをなだめたあと、赤穂へ発った'''日。
先祖は'''[[大石内蔵助]]の閑居があった京都の山科'''の近所の出だと勘違いしていた時期があったが(高祖母が木村荘平の愛妾だったから)、実際は'''[[伊達左京亮|伊達家]]'''のお屋敷があった麻布は仙台坂のそばのおっさんの子孫だった。
父親は「'''[[通し狂言 仮名手本忠臣蔵|仮名手本忠臣蔵]]'''はフィクションだからいいが、いかにも史実であるかのように家柄の良い'''高家筆頭の[[吉良上野介]]'''を悪者に仕立て上げる映画の忠臣蔵は嫌いじゃ!」と、アンチ忠臣蔵のアキバのデザイン会社の取締役で、母親はを悪者に仕立て上げる映画の忠臣蔵は嫌いじゃ!」と、アンチ忠臣蔵のアキバのデザイン会社の取締役で、母親は泉岳寺そっくりの'''[[村上喜剣]]四十七義士の墓'''の出身地、薩摩と反対側の福岡出身で、「忠臣蔵」と聞いても「はぁ、時代劇ね」というくらいの経理事務の人。くすおはそういう家柄のもとに生まれた。がある(興宗寺〜こうしゅうじ〜)福岡県(とはいえ、出身は久留米)出身で、「忠臣蔵」と聞いても「はぁ、時代劇ね」というくらいの経理事務の人。くすおはそういう家柄のもとに生まれた。
小学生時代、ジョーズやタワーリングインフェルノや犬神家の一族にすっかりしびれて映画狂になるが、いろいろ映画館に見に行った作品の1本に深作欣二の「'''[[赤穂城断絶]]'''」があった。その時はハマりはしなかったが、いわばもりいくすおが真っ正面から接した忠臣蔵ファーストコンタクトである。物心ついた時からすでに絵を描くのが好きだったくすおは、小学生の時、雑誌の「テレビランド」や「小学四年生」「小学五年生」に投稿して絵を掲載してもらう印刷初体験をする。同時に「おはようこどもショー」のコーナーでつボイノリオの背景に絵を採用された放送電波初体験もした。
さらに、そのパンフレットにはそれまで公開された過去の忠臣蔵映画のスチルがたくさん載っており、釘付け。同じテーマでいろんな作品がめんめんと作り続けられてるという映画史に興奮した。間違いなくここで植え付けられたなにかが触媒され本サイトを作る根源になっている。テレビや漫画ばかり見ていてあまりに勉強しないので、罰として親に漫画本のすべてを破棄されるがクオリティの高い手塚治虫(<ちなみに先生は「'''[[わんわん忠臣蔵]]'''」原案を担当している)作品だけは父の情けで読んでいいというお赦しが出る。(当時俗悪とされたテレビ番組「8時だヨ!全員集合」「うわさのチャンネル」についても視聴禁令が敷かれた)
勉強のじゃまになったり、他人の机を落書きで汚したり、いかがわしい絵を描いたりという悪行に対してしばしばマンガ全般禁止令が出るが、今にして思えば抑圧はますます描きたい情熱をかきたてた。
テレビランドや小学四年生、五年生に投稿して絵を掲載してもらう印刷初体験もこのころ。同時に「おはようこどもショー」のコーナーでつボイノリオの背景に絵を採用された放送電波初体験もした。
あまりに勉強しないので、親に漫画本のすべてを破棄されるが手塚治虫(<ちなみに先生は「'''[[わんわん忠臣蔵]]'''」原案を担当している)だけは読んでいいというお赦しが出る。
小学生時代にジョーズやタワーリングインフェルノや犬神家の一族をきっかけとしてハマった映画鑑賞だったが中学生になってから、深作欣二の「'''[[赤穂城断絶]]'''」に出会う。いわばもりいくすおが真っ正面から接した忠臣蔵ファーストコンタクトである。
中学時代は落語にハマり、その中の1本、「そのパンフレットにはそれまで公開された過去の忠臣蔵映画のスチルがたくさん載っており、釘付け。同じテーマでいろんな作品がめんめんと作り続けられてるという映画史に興奮した。間違いなくここで植え付けられたなにかが触媒され本サイトを作る根源になっている。 また落語にハマったのも中学時代で、たとえば「'''[[中村仲蔵]]'''」を聴きながら、創作の魅力をあれこれ想像し、おはなしに出てくる'''[[斧定九郎|定九郎]]'''ってどんなんだろうと思いをはせた。この頃を境に両親を「おとっつぁん」「おっかさん」と呼ぶようになる。 アメリカの風刺雑誌MADと巡り会い、モート・ドラッカーの作風に憧れる。 学園祭では16ミリフィルムでアニメ撮影などした。
アメリカの風刺雑誌MADと巡り会い、モート・ドラッカーの作風に憧れる。学園祭では16ミリフィルムでアニメ撮影などした。
中高一貫なので、そのまま新宿の成城高校に進学。
都バスで6年間、登下校の際、'''[[堀部安兵衛]]の自宅のあった牛込柳町を行き来した。の自宅のあった牛込'''柳町を行き来した。
この学校は最寄りが早稲田駅であり、言うまでもなく'''[[堀部安兵衛]]の高田馬場の決闘'''の現場に近い。裏のの現場に近い。学校の裏にあたる'''月桂寺は講談で[[鳥居理右衛門]]が門前で槍術指南'''をした場所とされる。
先輩に、'''[[清閑寺熙定|清閑寺中納言]]'''を演じた上原謙や'''[[大石内蔵助]]'''その他を演じた[[丹波哲郎]]。'''[[間十次郎]]'''の子孫でアナウンサーの羽佐間正雄氏がいる。
このころ、ぴあに毎号似顔絵パロディイラストを読者投稿して掲載してもらうなどしていたが、高2のある日、縁あって「仮面ライダー」や「このころ、雑誌「ぴあ」に毎号似顔絵パロディイラストを読者投稿して掲載してもらうなどしていたが、高2のある日、縁あって「仮面ライダー」や「'''マンガ日本の歴史・忠臣蔵と生類憐み'''」で有名な石ノ森章太郎先生にマンガを見てもらい、とりあえず悪く言われなかったことですっかりその気になり絵描きの道を目指す。ちなみにその時の先生のアドバイスは「きみは噺家をめざしたほうがいいんじゃないか?」だった。 」で有名な石ノ森章太郎先生にマンガを見てもらい、とりあえず悪く言われなかったことですっかりその気になり絵描きの道を目指す。お礼に出かけた場所が国立小劇場の楽屋だったことも手伝ってか、ソワソワするもりいの様子を見たその時の先生のアドバイスは「きみは噺家をめざしたほうがいいんじゃないか?」だった。
== デビュー以降 イラストデビュー以降 ==
デビュー当初は絵の具を使ったリアル絵を看板として、雑誌や広告にイラストを提供し、タカラトミーのプレステゲーム「ラーメン橋」のキャラデザインなどもした。デビュー当初はフランスのバンド・デシネに憧れたこともあってアクリル絵の具を使ったリアル絵を積極的にメインの仕事とし、雑誌や広告にイラストを提供し、タカラトミーのプレステゲーム「ラーメン橋」のキャラデザインなどもした。
その後パソコン時代到来と共にコラージュマンガ(漫画と写真を合成したフュメッティ)でフェチ漫画を意気揚々と制作(あちゃら「フェチャイライトゾーン」)。当時の地上波で放送中だった「トゥナイト2」「タモリ倶楽部」などでフェチコメンテーターとしてしばしば本人が電波にも乗った。
やがて2005年、やがて2005年、若き'''[[堀部安兵衛|安兵衛]]'''が江戸に来て最初に住んだ、'''[[神崎与五郎]]'''が「美作屋善兵衛」を名乗って町民に化けていた、'''[[寺坂吉右衛門]]'''の墓のある、'''[[吉良上野介]]'''の愛人が住んでいた麻布に仕事場を引っ越し新装開店。(江戸城の鬼門から裏鬼門に引っ越したわけである)の愛人が住んでいた、本籍地でもある麻布に仕事場を引っ越し新装開店。(江戸城の鬼門から裏鬼門に引っ越したわけである)
自宅も転宅したがそこはたまたま、[http://blog.kusuya.net/?eid=901 イタリア大使館]('''[[大石主税]]'''や'''[[堀部安兵衛]]'''終焉の地。伊予松山藩・'''松平隠岐守の中屋敷跡'''。)の目と鼻の先だった。
(この時点で、まだ忠臣蔵にはハマっていない)この時点で、まだ忠臣蔵にはハマっていないが、タイミングとしてはあきらかにこの引越がターニング・ポイントといえる。
2006年、翌年亥年の年賀状に'''[[通し狂言 仮名手本忠臣蔵|仮名手本忠臣蔵]]の五段目'''に出てくるイノシシを描こうとにわかに思いたち、友人に結婚のお祝いに似顔絵を描く代わりにと仮名手本忠臣蔵のDVDを無心。ここで初めて歌舞伎をじっくり見る(DVDだけど)。(結局年賀状は制作せず仕舞い。)に出てくるイノシシを描こうとにわかに思いたち、友人に結婚のお祝いに似顔絵を描く代わりにと仮名手本忠臣蔵のDVDを無心。ここで初めて歌舞伎をじっくり見る(DVDだけど)。(結局年賀状は制作せず仕舞い。)
雑誌やテレビの似顔絵の仕事が多かったので、練習もかねて登場人物の役者絵を仕事の合間に描いていたら仕事中もオフも絵と向き合うこととなり、それが楽しいウォーミングアップになった。おかげでいつ仕事へのシフトしても筆が軽やかになり、気が進まない仕事が激減した。
 
映画やドラマの登場人物の元ネタがどうやら古典にあると察し、[http://blog.kusuya.net/?eid=964 20代から親交のあった国本武春氏]に相談。自宅に押しかけ講談本やカセットテープを大量に借り、お勉強に興じる。
そして突然熱くなった忠臣蔵への思いから1年弱。遂に2008年、たまったメモと役者絵を素材にして本サイト公開に至る。そうして突然熱くなった忠臣蔵への思いから1年弱。遂に2008年、たまったメモと役者絵を素材にして本サイト公開に至る。
ホームページの名前、'''くすやは討ち入りの前に四十七士が集まった[[蕎麦屋|そば屋]]'''の名前にちなんでつけました。自分の名前に似てたので。
2013年に忠臣蔵物語を布教するために「2013年に忠臣蔵物語を布教するために'''「[http://blog.kusuya.net/?day=20131201 早わかり忠臣蔵絵本]」をリトルプレスでリリース。ゆかりの地で売っていただく。」'''をリトルプレスでリリース。ゆかりの地で売っていただく。  2014年はイタリア大使館('''旧・松平家'''跡)訪問。フランスでの義士絵の販売(以下に詳細)や、久米宏さんや春風亭一之輔師匠のラジオ出演、テレビ3番組ほどの義士絵の提供。  2015年、1年の審査の末ラインのスタンプ'''「[http://line.me/S/sticker/1025020 忠臣蔵~47samurai~]」'''が発売。 使い勝手の悪さに急遽スピンオフ'''「[http://line.me/S/sticker/1155319 忠犬ちんべえ]」'''を審査申請したら今度はたったの4日でリリースされた。 前年、フランスのパリ西部に位置するナント市にある歴史博物館の要請で、新正堂さんに提供した'''義士ようかん'''の絵(47葉。歌川国芳のアレンジ)を提供。博物館はそれを大判のシルクスクリーンで刷り直し、2セット作ったものを、同博物館で開催された「サムライ展」のために制作されたブックセットに入れて販売したが、2015年春にそのブックセットがめでたくLa Nuit Livre 2015 アート書籍部門においてグランプリを受賞した。 夏、紀里谷和明監督の'''「[[ラスト・ナイツ]]」'''の広報活動に協力。 12月は両国から泉岳寺までの道のりをテレビでご案内(テレビ東京「なないろ日和」)。 [http://www.city.minato.tokyo.jp/kouhou/movie/1602-rekishi02.html 港区さんの歴史フォーラムのために講演初登壇]。  2016年、国立演芸場'''「忠臣蔵でござる 春宵特撰 ASANO meets HANGAN」'''にて春風亭一之輔師匠とトークライブ。
こつこつ運動を進めていたが、特に2014年はイタリア大使館(旧・松平家跡)訪問。フランスでの義士絵販売や、久米宏さんや春風亭一之輔師匠のラジオ出演、テレビ3番組ほどの義士絵の提供、泉岳寺総門の建築反対運動のお手伝いなどのご縁に恵まれた。10月 国立劇場開場50周年記念グッズ'''「[http://blog.kusuya.net/?day=20161003 芝居廻り絵巻『仮名手本忠臣蔵』]」'''を高田紙器さんと開発&リリース。 11月 ヨミウリ・オンラインさんにて作文[http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20161122-OYT8T50010.html 「師走恒例「忠臣蔵」はオワコンにならない」]。 12月 赤穂市立図書館にて個展'''「忠臣蔵イラスト展〜もりいくすおのおしごと披露〜」'''開催
== 蛇足 ==
ちなみに、座業ばかりで運動不足が続くもりいは数年おきに、看護士さんたちの人あたりの良い聖路加病院('''鉄砲洲の[[浅野内匠頭|浅野]]家お屋敷跡''')で人間ドックをうけているが、たまに健康管理のためにウォーキングもする。片道20分の往復でスタスタ歩くが、折り返し地点は'''泉岳寺'''や'''南部坂'''である。
== 外部リンク 外部リンク/ギャラリー ==
* [http://kusuo.com/ もりい くすおの画主主義共和房]
* [http://ameblo.jp/kusuosan65/ もりい くすおのキモナーな毎日]
 
 
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画像:ohisi_jinjya.jpg | 2008.11月大石神社にて
画像:Cafe.jpg|2008.12~09.01忠臣蔵カフェ開催(さと和さん)にて
画像:Tenugui.jpg|2008年 忠臣蔵がお家芸の浪曲師・うなるカリスマ国本武春さんの手ぬぐいをデザイン
画像:Radio.jpg|2009年NHKラジオ番組出演。ゲストに大林素子さん、豊竹咲大夫さん
画像:R0013830.JPG|2010年新正堂さんより、もりいくすお画の四十七士があしらわれた「義士ようかん」発売。国芳の絵に講談や史実をアレンジした。
画像:isyoku.jpg|2011赤穂市より観光大使を委嘱。
画像:Card-1.jpg|2011年播州赤穂忠臣蔵専門グッズ店わたやさんにて、さまざまなオリジナル商品デザインをさせていただく。
画像:Cyo-toku-ji.jpg|2012年安兵衛の故郷は新潟・新発田の長徳寺さんや武庸会さんと昵懇に。(長徳寺・義士堂にて)
画像:2014ho-yo.jpg|2013~14年泉岳寺にて殿さまご法要の世話人をさせていただく。
画像:Ooisi-jinjya.jpg|2013.第110回赤穂義士祭参加。大石神社、飯尾宮司さんと。
画像:Italia.jpg|2014.武庸会と皆さんとイタリア大使謁見(大使館は松平家跡)
画像:32.jpg|2014.フランス、ブルターニュ大公城「サムライ展」で義士絵と絵本発売。
画像:IMG_7903.JPG|2015.初公演。初テレビ体験。
画像:densyo_kan.jpg|2016新潟県新発田、清水園内の安兵衛伝承館で「安兵衛真観」発表。
画像:Gallery.jpg|2016聖地・播州赤穂にて個展開催。
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