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吉良上野介

208 バイト追加, 2020年7月13日 (月) 07:22
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事件後、現役リタイア。呉服橋(東京駅付近)から本所一ツ目(松坂町/墨田東両国三丁目)に引っ越し。長っぽそいでっかい家に住んでた。2550坪(約8430m²)。東西の表門〜裏門133m、南北63m。事件後、現役リタイア。呉服橋(東京駅付近)から本所一ツ目(松坂町/墨田東両国三丁目)に引っ越し。長っぽそいでっかい家に住んでた。2550坪(約8430m²)。東西の表門〜裏門133m、南北63m(<なに見て書いたのか、計算が合わない。145.8m✕68.2mと、聞いたこともある)。
倒産した赤穂藩の残党が仕返しにくるというウワサからセキュリティ対策はしていたものの、警備員は120(90?150?)名もいながら討ち入りの時はみんな眠ってるところを叩き起こされた上、長屋でスタンバイしてた連中は浪士の数がハンパじゃないと勘違いして出動しなかった。
討ち入りされて一家断絶になっちゃったが、吉良さんはなにげに'''三河では今も名君として評判がいい'''。
・・・とは言うものの、悪者だって家に帰れば良き夫、良き父にかわることはよくあることで、領地からしぼりとらなくたって吉良ほどの財産と名声があればなおのこと……とは池波正太郎氏の談。<small>(「戦国と幕末」)(「戦国と幕末」/「忠臣蔵と日本の仇討ち(中央公論社「歴史と人物(S46.12月号)」抜粋)」)</small>
現代にも一部が残る堤防を作ったことと、農耕用の駄馬にまたがって現場を視察したと伝えられる親近感が、名君の根拠となっている(要確認)が、そのあたりがうまく構成されているのが、稲田和浩先生作の浪曲「赤馬の殿様」である。東家孝太郎師匠の持ちネタ。

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