差分

提供: Kusupedia
移動先: 案内検索

四十七人の刺客

312 バイト除去, 2014年1月15日 (水) 02:37
編集の要約なし
{{Cinema|制作=東宝|公開=1994|内蔵助=高倉健|星=34|頃=}}
いわゆるリメイクというよりもリ・イマジネーション。
全体のムードは「はかりごと」でもいいましょうか、作戦本意の、もうほとんどまったく新しく構成し直した怪作(いい意味で)。
「お軽」を丁寧に描いてたり原惣右衛門と上杉家の関係に言及したり、フィクションにしても色部又四郎と柳沢が通じて策を練るとか、討ち入りにケータリングがあるなど、ほかでは描かれてない工夫や新解釈がいっぱいの楽しい娯楽作品。。お気の毒な外様大名さんというより、城を無くしてとにかく「ふざけんな、ちくしょう!!」と頭に来た、野に放たれた狂犬の群れというような「特殊部隊」というイメージの四十七人。
お気の毒な赤穂の「義士」というより、城を無くして野に放たれた狂犬の群れというような「特殊部隊」的なイメージの四十七人。
あたし・もりいの「忠臣蔵」の解釈だが、武芸をたっとぶお家柄の浅野家を怒らせた、というアプローチは現代においての表現には大切だと思う。そもそも「かたきうち」とは言いにくい側面のある作戦なので、武芸をたっとぶお家柄の浅野家を怒らせた。だから暴れた。…という理屈を抜いたアプローチは現代人には有効だと思う。その点本作では人殺しの意義や、吉良を殺す大義名分など、いろいろ現代人に四十七士の見方をレクチャーしてくれているよう。
昭和まではなんとなく「虐げられてる外様大名」みたいなお気の毒っぽい色合いだったが、コレからは「かたきうち」という価値観はお江戸の民衆の勝手次第にさせて、四十七士はともかく「怒れる人々」が集結して、殿がやろうとした「とどめ」をさしに行く!というほうが鑑賞者の共感を得られるんじゃなかろうか。だからこそ、ボスキャラの吉良は家柄もバックもしっかりしてる強敵にしたほうがいい。(聞けば史実でも浪士を預かった細川の殿様は「義士」ではなく「勇士」、家来の[[堀内伝右衛門|堀内さん]]も「戦士」と言ってたとか。当時、四十七士を尊んだお武家さん達も戦闘者としての彼らに惚れたのではなかろうか。)
最初のほうで、高倉健の大石内蔵助が劇画から飛び出したようなあまりのカッコよさなので、後半の討ち入りに期待をしちゃうのだが、残念なことに吉良屋敷に妙な仕掛けからくりが多く(これもオリジナリティのひとつではあるのだが…)、おかげでテンポが崩れ、痛快な討ち入りシーンには仕上がっていない。このリズムの転調は、なんだか惜しい。市川崑監督ってアクションが静かなんだよなー。緊張感はあるけどワクワクはしない。最初のほうで、高倉健の大石内蔵助が劇画から飛び出したようなあまりのカッコよさなので、後半の討ち入りに期待をしちゃうのだが、残念なことに吉良屋敷に妙な仕掛けからくりが多く、おかげでテンポが崩れ、痛快な討ち入りシーンには仕上がっていない。このリズムの転調は、なんだか惜しい。市川崑監督ってアクションが静かなんだよなー。緊張感はあるけどワクワクはしない。
また、定石をいろいろぶちこわしてるので、画面の中で誰が誰と会ってなにを話をしてるのかビギナーが漫然としてると、ちょっと置いて行かれる。登場人物の重要性も伝わらない。このアレンジの妙を楽しめるほど、現代人の頭には下地が無いのだ。だからカケダシ当時のあたしにとっては最初星ふたつの映画だった。また、画面の中で誰が誰と会ってなにを話をしてるのかビギナーが漫然としてると、ちょっと置いて行かれる(わざわざ話し相手をフルネームで言ってても、である)。登場人物の重要性も伝わらない。このアレンジの妙を楽しめるほど、現代人の頭には下地が無いのだ。だからカケダシ当時のあたしにとっては最初星ふたつの映画だった。
だが、あるていど「忠臣蔵」のベースが頭に入ってからあらためて観てみると「そうきたか」と愉快に観られる。

案内メニュー