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寺井玄渓
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若い時(当時の主人は本多出雲守)は放蕩もしたが、長崎でオランダ人について医学の修行をし腕を磨いた。
お家大変後、大石の東下りの時に同道を申し出たが、医者坊主までメンバーにしたとあっては義党一同の恥辱になると断られるが(高齢なのでかなわなかったとする説もある)、「軍中に医者は必要」とねばったことで、かわりに息子の玄達(げんたつ)が江戸下向に加わる。玄渓は山科のあとしまつを担当。
玄達は討ち入り当夜の傷の手当てに当たった。
== 関連項目 ==
[http://blog.kusuya.net/?day=20141230 忠臣蔵ブログ「京都忠臣蔵案内」]…寺井玄渓のお墓参り。