差分

提供: Kusupedia
移動先: 案内検索

小野寺十内

60 バイト追加, 2022年3月8日 (火) 23:24
編集の要約なし
寛文3年3月(1663)江戸。浅野家の近習二人が[[浅野内匠頭|殿様]]の馬で飛鳥山に花見に出かけると、馬の顔に酔っぱらった職人が投げた瓦器(かわらけ)があたってしまう。馬が大暴れするので花見客がみんな逃げてしまった。この様を見て怒った[[丹女|すごい美人]]の馬で飛鳥山に花見に出かけると、酔っぱらった職人が投げた瓦器(かわらけ)が馬の顔にあたってしまう。馬が大暴れするので花見客がみんな逃げてしまった。この様を見て怒ったすごい美人(当時16歳くらい16歳くらい)が、謝らないで立ち去ろうとする近習ふたりを投げ飛ばし、下女とともに馬に乗り去っていってしまう。
聞き込み捜査の末、娘の個人情報をゲットし、二人から相談を受けた馬役の植村藤右衛門が、美人のいる屋敷に詫びに行く。聞き込み捜査の末、娘の個人情報をゲットした二人は馬役の植村藤右衛門に相談。植村は二人とともに美人のいる屋敷に詫びに行く。
この美人は溝口家の家来・古川主馬の娘でお丹といい、謝罪に行った先で植村はすっかりお丹に一目惚れする。この美人は溝口家の家来・古川主馬の娘で[[丹女|お丹]]といい、謝罪に行った先で植村はすっかりお丹に一目惚れしてしまう。
恋わずらいに伏せった植村を心配した十内はキューピットを買って出て、そもそも馬術の師匠として面識のあった古川のもとへ植村を売り込みに行く。
若鮎や釣らぬ柳にはねてゆき…
 
(講談)
元禄十四年、主家断絶の時いくさをするという評判を聞いて息子・幸右衛門とともに赤穂へ。「籠城はよくない」と大石にアドバイス。元禄十四年、主家断絶の時いくさになるという評判を聞いて息子・幸右衛門とともに「籠城はよくない」と主張しに赤穂へ。
城明け渡し後は妻・お丹とともに京都今出川に住み、和歌を詠んで閑日月を送る。
元禄十五年十月、お家再興の望みが絶えて大石が江戸へ下るときに「神文返し」作戦をアドバイス。一緒に出府する際、お丹に計略のすべてを打ち明け京都を去る。
江戸に下ったあと十内は手習いの師匠をして時のいたるを待つ。江戸に下ったあと十内は手習いの師匠をして時のいたるを待った。
討ち入りの時は裏門係。不破の次に活躍したとも言われる。土屋さんちに向かって塀越しに大声でご挨拶。討ち入りの時は裏門係。不破の次に活躍したとも言われる。[[土屋主税|土屋さん]]ちに向かって塀越しに大声でご挨拶。
討ち入りの翌年、十内が妻・お丹に送った仇討ちの様などを幽閉先からつまに手紙でよこし続けた。夫婦間の手紙のやりとりは「涙襟集(るいきんしゅう)」という本になるほどの量だとか。討ち入りの翌年、十内が妻・お丹に仇討ちの様などを幽閉先から手紙でよこし続けた。夫婦間の手紙のやりとりは「涙襟集(るいきんしゅう)」という本になるほどの量だったとか。
討ち入りの参謀としては重要な役回りだがドラマによって扱いが違う。
「[[日曜劇場 女たちの忠臣蔵〜いのち燃ゆる時〜東芝日曜劇場 女たちの忠臣蔵〜いのち燃ゆる時〜|おんなたちの忠臣蔵]]」では夫婦仲のいいところがクローズアップされ、奥さんのお丹(杉村春子)が十内(山村聡)の四十九日の法要のあと自害するシーンがえがかれ、辞世を紹介してドラマを締めくくっている。
「[[新春大型時代劇スペシャル 大忠臣蔵|松方弘樹版・大忠臣蔵]]」では夫婦のキスシーンもある。
== 関連項目 ==
* [[丹女|お丹]](愛妻)
* [[小野寺幸右衛門]](養子にもらった甥)
* [[大高源五]](甥)

案内メニュー