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忠臣蔵 地の巻/天の巻

30 バイト追加, 2021年6月1日 (火) 09:53
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公開当時、空前の大当たりを取った作品。<small>(昭和33年「アサヒ芸能」NO.614)</small>
封切り前日に出演者全員で泉岳寺にお墓参りに行って(自動車数台のパレードに、沿道は人だかり)、そのあと浅草や新宿の封切り館で、役者の舞台挨拶(当時は珍しかったという)をするという、大プロモーションも行われた(特に阪妻やアラカンはそういうのをしないので有名だったとか)。経営難の日活が黒字に転じた。(出典:田山力哉「千恵蔵一代」社会思想社)封切り前日に出演者全員で泉岳寺にお墓参りに行って(自動車数台のパレードに、沿道は人だかり)、そのあと浅草や新宿の封切り館で、役者の舞台挨拶(当時は珍しかったという)をするという、大プロモーションも行われた(特に阪妻やアラカンはそういうのをしないので有名だったとか)。経営難の日活が黒字に転じたという。<small>(田山力哉「千恵蔵一代」社会思想社)</small>
 合併前から数えれば、長い歴史を持つ日活が、&戦前まではたくさん忠臣蔵をリリースしてきた日活が、敢えて新時代の発展を意識するように、忠臣蔵を撮らないことで過去との決別を計ったのかもしれない。(という、勝手な深読み)
 忠臣蔵映画製作は、「作り得る撮影所が立派に大人として成長した会社だという証拠」(マキノ省三監督の言葉だったと思うby南部僑一郎「別冊近代映画 昭和34年2月号」)とすると、日活はじゅうぶんに成熟していたといえるし、その後、70年代という微妙なときに「戦争と人間」三部作とか作ってる元気もあるから、やはり 忠臣蔵映画製作は、「作り得る撮影所が立派に大人として成長した会社だという証拠」<small>(マキノ省三監督の言葉だったと思うby南部僑一郎「別冊近代映画 昭和34年2月号」)</small>とすると、日活はじゅうぶんに成熟していたといえるし、その後、70年代という微妙なときに「戦争と人間」三部作とか作ってる元気もあるから、やはり'''敢えて'''忠臣蔵に手を出さなかったのかなと。(という、勝手な深読み)

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