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忠臣蔵 地の巻/天の巻

1,070 バイト追加, 2021年11月8日 (月) 15:42
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{{Cinema|制作=日活|公開=1938|内蔵助=阪東妻三郎|星=3|頃=}}
[[画像:Chie tono2.jpg|thumb|役者絵:片岡千恵蔵]][[画像:Yasui2016.jpg|thumb|役者絵:志村 喬]]
30歳代の知恵蔵は台詞が明瞭(早口だけど)。東西オールスターキャスト。30歳代の知恵蔵は台詞が明瞭(早口だけど)。
かなりスタンダード。
 
公開当時、空前の大当たりを取った作品。<small>(昭和33年「アサヒ芸能」NO.614)</small>
 
封切り前日に出演者全員で泉岳寺にお墓参りに行って(自動車数台のパレードに、沿道は人だかり)、そのあと浅草や新宿の封切り館で、役者の舞台挨拶(当時は珍しかったという)をするという、大プロモーションも行われた(特に阪妻やアラカンはそういうのをしないので有名だったとか)。経営難の日活が黒字に転じたという。<small>(田山力哉「千恵蔵一代」社会思想社)</small>
全体の尺に比べて「大石東下り」がたっぷりしている。内匠頭と二役の知恵蔵演じる全体のエピソードに比べて「大石東下り」がたっぷりしている。内匠頭との二役を演じる千恵蔵の[[立花左近]]と内蔵助との面会を目玉にしているのもあるが、BGMの長唄「勧進帳」の歌詞をすっかり聴かせるためにわざわざタメてるのが印象的。と、内蔵助との面会シーンは、BGMの長唄「勧進帳」(そもそも芝居に合わせた楽劇)の一節を聴かせる尺に演技を併せるようにしているのが印象的。 ウソの身分証を出す緊張感や、さっそうと帰っていく立花左近に、「勧進帳」の抑揚がばっちりハマっている。
<附言>
 戦争をまたいで、20年後くらいに映画の全盛期になり、日活も石原裕次郎や赤木圭一郎など、大スターを抱えて東映と人気争いでしのぎを削るが、各社が作った「オールスター出演映画」は日活は制作しておらず、ましてや現代劇専門?だったのもあって、忠臣蔵もその頃に作られていない。 戦争をまたいで、20年後くらいに映画の全盛期になり、日活も石原裕次郎や赤木圭一郎など、大スターを抱えて東映と人気争いでしのぎを削るが、各社が作った「オールスター出演忠臣蔵映画」は日活は制作しておらず、ましてや現代劇専門?(いやいや「幕末太陽傳」という大傑作があるしなあ)だったのもあって、忠臣蔵もその頃に作られていない。
 合併前から数えれば、長い歴史を持つ日活が、&戦前まではたくさん忠臣蔵をリリースしてきた日活が、敢えて新時代の発展を意識するように、忠臣蔵を撮らないことで過去との決別を計ったのかもしれない。(という、勝手な深読み)
 忠臣蔵映画製作は、その制作会社の力の有り様を鼓舞する目的もあったとする、春日太一先生の言葉を借りると、日活は「そういう元気」がなかったとも受け取れなくもないが、70年代という微妙なときに「戦争と人間」三部作とか作ってるから、やはり敢えて忠臣蔵に手を出さなかったのかなと。(という、勝手な深読み) 忠臣蔵映画製作は、「作り得る撮影所が立派に大人として成長した会社だという証拠」<small>(マキノ省三監督の言葉だったと思うby南部僑一郎「別冊近代映画 昭和34年2月号」)</small>とすると、日活はじゅうぶんに成熟していたといえるし、その後、70年代という微妙なときに「戦争と人間」三部作とか作ってる元気もあるから、やはり'''敢えて'''忠臣蔵に手を出さなかったのかなと。(という、勝手な深読み)

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