ダブルエッジの忠臣蔵!

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作品概要
制作会社 ダブルエッジ
公開年度 2022年
内蔵助役 石綿大夢
評価 2ツ星
チラシ


もともと演劇ユニットとしてスタートした芸人のダブルエッジさんが2005〜6年頃に書いたというふたり芝居。芸人さんの芝居だがおおむねシリアス。(もりいは2022年11月に鑑賞)

行く前に「ふたり芝居」って聴いてたんで、てっきり、なんかのキャラ二人が延々と問答でもするのかなと思ったら、討ち入りから回想するかたちで大評定までさかのぼり、大石内蔵助の話し相手の役者さんが元藩士や遊女、垣見五郎兵衛吉良になって対応する内容(意外に早変わりがすごい)。

お客さんに四十七士の名前の書いた首にかける布(たすきと呼んでいた)が配られ、たびたびこちらを参加させてくれる楽しい仕掛け。(成城学園前のアトリエ第Q藝術でキャパ20人くらい相手に)


<ネタバレ>

ストーリーはいわゆる「ほんとうは大石内蔵助は討ち入りをしたくなかった」系。

理由は、死ぬのがイヤだから。

悪いことに、あたしがこのお芝居を鑑賞する近辺で山本博文先生の「殉死の構造」を読んだばっかりだったし、このところBS松竹東急で「ミフネ版」の再放送で毎日、討ち入りにまっしぐらな赤穂浪士たちの筋の通ったやり取りを見ているせいで、すっかり没我や献身に重きをおく武士道精神に納得しちゃってたものだから、この芝居の主人公の内蔵助がどうして命を惜しがってるのかが、もうひとつピンとこなかった。いや、もちろん令和時代に成城学園の芝居小屋でカツラつけて「死にたくない」って言ってる若い役者さんの気持ちなら「でしょうね」と、理解できるけど。それとこれとは別でしょう?

お家大変の前まで昼行灯をあだ名された大石は、討ち入りすることが決まっても逃げたい気持ちがいっぱいで、腰ぬけの筋がブレずに一本通ってるだけに、じゃあどうして討ち入りがイヤなのにこの人は逐電しないんだろうと思うし、みんなに押し切られてしまう流されやすいタイプだというのだが、じゃ逆に家来家臣たちはどうしてこんなヘタレを頭領としていつまでも執着しているのだろう?

同時に「(人は)死にたいわけがない」を何度も強調すればするほど、この世界観での元・家来家臣たちが、なぜ討ち入りをしようと血気に逸っているのか、その理由もよくわからない。

その、逃げ腰の内蔵助に、上演中、延々と吉良の声が「本心ではないのだろう?命が惜しいんだろう?」と、くりかえし投げかけ続けるもんだから、もう後半になると辛気臭くてしんどくなってくる。

(付言:今にして思えば、おそらく脚本上は、命は惜しいけどそこを見て見ぬ振りをしなくちゃならない立場や見栄など、人間の弱い部分が「台詞で」補完されていたんじゃなかったかと思うのだが、忠臣蔵からかけ離れたそうした価値観や死生観は言葉だけで「説明」されても、あたしには入ってこなかった。)


何でもこのハナシは、これをお書きになったダブルエッジの高山なおきさんが「割と人生行き詰まって」いたときに書いたそうで、それを聴くと、ンじゃしょうがねえのかな。となる。

芸人さんというだけあって、お客さんいじりが上手なので、あいまあいまに我々をくすぐってくれるおかげで緩和されていたのが救いだった。(たのしかった)


そんな大石さんも最後の最後には、殿様の辞世を読んで発奮し、吉良のとどめを刺すのだが、大事なところなのにあたしが最後のほうで気を抜いていたもんだから、大石が吉良の首級をあげることに前向きになるプロセスがビックリするほど印象に無い。

要は、この1年10ヶ月の間、大石の本心や後悔について責めてきた吉良の声(この芝居は序盤から、大石に「謎の声」として吉良の声がナレーションでかぶる)に対し、大石のほうが吉良の本心を見抜くのが逆転の鍵になるのだが(違ってたらすいません)、大石が迷わず堂々と吉良を手に掛けるような一面が、これまで布石として劇中に無かったためもあってか(ずっとウジウジしてた)、唐突とも見える発奮に説得力を感じられなかったのかも。(「携帯忠臣蔵」で中井貴一の大石がラストで急にやる気になる呼吸に似ている)


「やりたくないのにやんなくちゃいけない」的な現代的な視座を忠臣蔵のスケールに合わせるなら、シリアスにしないで、笑いに振り切ってしまっても良かったんじゃないのかなあ…。