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元禄忠臣蔵 前篇・後篇

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{{Cinema|制作=松竹興亜映画/松竹|公開=1941|内蔵助=河原崎長十郎|星=2|頃=}}
[[画像:Isokai.jpg|thumb|役者絵:河原崎国太郎]][[画像:genroku_kohen.jpg|thumb|公開当時のチラシ]]
情報局国民映画参加作品。真珠湾攻撃の1週間前に封切りされている。 <small>(註01)</small>
玄人向けで'''かなりハードルが高い'''。
原作は新歌舞伎「[[元禄忠臣蔵]]」1934。出てるのは前進座の人ばっかり。」1934。出てるのは前進座の人ばっかり(戦前の、良いころ)。
松の廊下や細川家のお屋敷がオープンセット(に見える)だったりと、セットが意外に豪華。松の廊下や細川家のお屋敷がオープンセットだったりと、セットが意外に豪華。<small>(註02)</small>
ところどころ史実や講談の要素を混ぜてるが、ほとんど原作の新歌舞伎をかなり忠実になぞっている。
== 補足 ==製作総指揮:白井信太郎/脚色:原健一郎 依田義賢/監督:溝口健二
 <附言> 忠臣蔵、というよりも、前進座の映画出演のバリエーションと見ると、ちょっと楽しい。「人情紙風船(37)…監督・山中貞雄」「幡随院長兵衛(40)監督…千葉泰樹」と来て、本作を見てたら、役者の変身ぶり&演じぶりがなかなか楽しゅうございました。   == 註釈 ==  註01…「[http://www.jmdb.ne.jp/ 日本映画データベース]」によるとそういうことになってるが当時、美術を担当した進藤兼人の回顧によると封切りは12月14日であり、8日の真珠湾攻撃のあとでちまたは映画どころではなかったらしく封切り時の「客はまばらだった」としてある。折も折だったが、スター不在」によるとそういうことになってるが当時、美術を担当した進藤兼人の回顧によると封切りは12月14日であり、8日の真珠湾攻撃のあとでちまたは映画どころではなかったらしく封切り時の「客はまばらだった」としてある。<small>(キネマ旬報No.1145)</small>(←加筆:前篇が12月公開で、後篇が翌年2月公開。映画どころじゃない感じとはいえ、日本軍のグイグイ時期ではある。) 折も折だったが、スター不在&討ち入りのない本作は興行的にはもうひとつだったと、佐藤忠夫氏は言っている。討ち入りのない本作は興行的にはもうひとつだった。<small>(両コメント共に、キネマ旬報No(キネマ旬報No.1145/1145)日本の映画史(3)p56佐藤忠男 岩波書店/「日本映画発達史 3」田中純一郎 中央公論社)</small> 
註02…リアリズム作家・溝口監督とスタッフのこだわりで実際の江戸城の図面からリアルに実寸の松の廊下が(映画1本撮れそうな巨費を投じて)再現されたという。
 
鉄砲洲屋敷の裏門、赤穂城武器庫や二の丸、大石邸門前と玄関などなど、オープンセットも多い。<small>(「映画旬報」1941年11月21日号 映画出版社)</small>
 
「実寸主義で行く」と言った監督のコトバを受けて、当時美術の新藤兼人は武家建築考証の大熊喜邦博士の家まで赴き、博士所有の松の廊下の原寸図を写し帰ったそうである。大道具はソレをすんなり受け取り、松竹御用の建築屋が入り、膨大な材木と人員で作ったという。<small>(「元禄忠臣蔵」再映時のパンフレットより 1978年)</small>
 
これは国が裕福であったと言うよりも、国威発揚のために"贅沢を許した"作品と言えるのではないか。(検閲が厳しいいっぽうで国策映画への予算応援は積極的だった?)
 
註03…「西洋絵がクローズアップによる一点の凝視と焦点化に重きをおいてるのに対し、日本絵画は「全体的画面構成」によるロングショットを基調とし、同じ画面の中に複数の中心を持ち込んでいる」と言い、「洛中洛外図」の構図を理想とし、広重にうっとりしている監督だったとか。<small>(「日本映画史110年」集英社新書)</small>
註04…忠臣蔵友達からうかがってあとで知ったのだが、本作はやはり、戦意高揚映画を撮らなければいけない時代に監督は芸術家として納得できず、遂にネタとして妥協できたのが本作だったそうである。また、この作品はヒットしなかったおかげで総集編のようなハサミも入れられず「溝口健二のワンシーン=ワンシーンの美学の頂点を今日に伝えている」という。<small>(「日本の映画史(3)」p170 佐藤忠男 岩波書店)</small>  註04…溝口監督は戦意高揚映画を撮らなければいけない時代に、軍の「協力しないなら松竹を潰す」…みたいな勢いを前に、社長命令によってしぶしぶ着手した。のちに溝口は「映画って無常命令的に撮らされるべきでない」「誰もやらないから、やりました」と概略そのようにコメントを残している。<small>(「日本映画発達史 3」田中純一郎 中央公論社)</small> 監督は芸術家として納得できず、ようやくネタとして妥協できたのが本作だったようだ。 その結果、パンフレットでは「忠義と復讐と玉砕精神の賛美であるし、原作者の真山青果は大石内蔵助の朝廷への熱い忠誠心のために苦悩していたというエピソードまで付け加えている」と、うたって、軍への体裁は整えている。 特に象徴的なのが「第二の使者」という一篇。 劇中、大石内蔵助が「赤穂城は無くなるけど、江戸での[[浅野内匠頭|殿様]]の凶行について京都のみかどが赤穂浅野を同情してくれてるらしい」という情報を聞いて「勿体なし」と、ハラハラ泣いちゃうのだが、これは原作にある青果の「皇国史観」であり、このシーンは日中戦争あたりでは感動され?戦後は猛烈な批判を浴びせられたらしい。<small>(季刊「歌舞伎」第二号 S.43)</small> そもそも青果の原作自体が「國民精神総動員」の思想的影響を受けており、だからこそ、企画が通ったのだろう。 だが、「女性映画」で手腕を振るう溝口監督には、ついに「ブシドウ」がなんだかよくわからなかったようだと新藤兼人は言っている。<small>(「元禄忠臣蔵」再映時のパンフレットより 1978年)</small>   <余談> 2022年12月現在(2021年6月頃からずっと)、アマゾンプライムビデオに「忠臣蔵」というタイトルの、サムネイルが日本刀のイメージでプレビュー動画が「元禄忠臣蔵」の作品がリリースされている。ランニングタイムが1時間51分とあるから、ダイジェスト版かなにかかと思ったら、シンプルにただの「元禄忠臣蔵」の前編まるごとだった。 解説には「1941 吉良に対し殿中にて吉良に刀を向けた浅野は、罰として切腹を命じられる。浅野の家臣である47名の侍が主君の無念を晴らすべく、立ち上がる。 監督溝口健二 出演四代目河原崎, 三代目中右衛門」(原文ママ)とあり、解説文から出演者の紹介まで雑すぎて笑ってしまうのだが、ただの「元禄」の前編なので「47名の侍が主君の無念を晴らすべく立ち上がる」シーンは無い。(「山科の別れ」で終わり)
「忠義と復讐と玉砕精神の賛美であるし、原作者の真山青果は大石内蔵助の朝廷への熱い忠誠心のために苦悩していたというエピソードまで付け加えている」<small>(映画『元禄忠臣蔵』パンフレットより)</small>

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