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堀部安兵衛

サイズ変更なし, 2009年9月1日 (火) 03:22
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江戸で長屋住まいし始め、「ケンカ仲裁屋」をインディーズで開業。仲直りさせては酒をおごらせ飲んだくれる日々に[[菅野六郎左衛門|おじさん]]が時たま訪ねてきては説教をたれた。
ある朝、飲み友達の糊売りのばばあ・おくまが言付かってた手紙から[[菅野六郎左衛門|おじさん]]の決闘を知り、裏の9尺(約3m)の高塀を飛び越え、ばばあのご飯を横取りしてテンションをあげ、八丁堀から高田馬場まで'''走って助太刀に駆けつける'''(でも遅刻)。おじさんは斬られるが18人(とも16人とも)やっつけて江戸中の大評判に。そのときの名は中山安兵衛。腕っ節に惚れたギャラリーの[[堀部弥兵衛]]にくどかれて養子となってから「堀部」姓に。(でも遅刻)。おじさんは斬られるが18人(とも16人とも)やっつけて江戸中の大評判に。そのときの名は中山安兵衛。
子供からの人気もあり、のんだくれて道ばたで眠っていると子供たちが鼻の穴に指をつっこんで起こそうとする。そういう気のおけなさ。
 
== 赤穂藩就職 ==
 
仇討ちの見物をしていた[[堀部弥兵衛]]の娘・[[ホリ]]が自分の緋鹿の子の扱帯(ひがのこのしごきおび)を「たすきにどうぞ」と貸してあげた縁もあり、彼の腕っ節に惚れた弥兵衛はすっかり安兵衛を気に入り、八丁堀地蔵橋の長屋におもむく。
 
仇討ちの誉れは各方面にとどろいていたので、毎日スカウト(特に松平左京太夫さんところが、死んだおじさんの後釜にと)の量が尋常じゃなかったが、「別に大望があるんで」とかテキトーなことを言ってことごとく断っていた安兵衛だったが、ある日弥兵衛が娘を連れてきたときは「大名の使者なら会わないが婦人なら面会する」と言ったのが運のツキ。以降、連日の弥兵衛の「婿に来てはくださるまいか」の猛烈アピールを浴びることとなる。
 
「送ったしごきはすなわち結納のしるし。ご受納になった上はこの縁談はとうにご承知でござろう。♪高砂やこの裏船に帆を上げて〜」
 
唐突だし強引だし、安兵衛は断るが弥兵衛は日参。とにかくこの爺さんしつこくて「中山の姓を捨てることはかなわぬ身の上」と言うと弥兵衛老「じゃあこっちが堀部姓を捨てて中山になってもいいから」とまで言いだし、最終的にはくどかれて養子となる。
 
晴れて内匠頭にお目通りの上、主従三世のお固めのお盃を賜りましてめでたく就職。

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