「大高源五」の版間の差分
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2010年5月11日 (火) 23:59時点における版
大高源五【おおたか げんご】…風流キャラ。俳号「子葉(しよう)」。
赤穂城倒産後は煤竹(すすだけ:すす払いに使う笹)売り〜京都呉服屋新兵衛。
12月14日の吉良屋敷で茶会があることを初代山田宗遍(やまだそうへん)から聞いた人。
彼には江戸下りのときに伊豆で馬子・国蔵に言いがかりをつけられ、詫び状を書かされたエピソードがあるが、芝居などでは神崎与五郎のアクシデントとして書かれている(なんで?)。ちなみに大高が書いた詫び状は現存しているとも言われる(画像:下)。
元禄15年夏頃、浅野大学さんをヘッドにして倒産した赤穂藩を再興させてくれと幕府にお願いして、期待してたのに「ナシ」と言うことになっちゃって大石は討ち入りを決意するが、以前に「大石さんについていく」と言ってくれた藩士たちから集めた決心の念書「神文(しんもん)」をとりあえず貝賀弥左衛門と一緒に、みんなに返すふりをして心変わりがないかためしてくれと、大高はお使いをたのまれる。返すと言うのは方便だが、その時黙って受け取るやつはメンバーから外し、覚悟あるものを見極める大石の計画であった。「神文返し」
討ち入り前日、雪の中いつものように煤竹売りに流して歩いてるところに橋の上で浪人する前の俳句友達の宝井其角とバッタリ会ってひさしぶりに句を交わす。宝井「年の瀬や水の流れも人の身も」(とか「人の流れと人の身は」)。大高「あした待たるるその宝船」。宝井は句の意味をあれこれ考える。
討ち入りのときにお隣の土屋さんちに挨拶に行ってる。
歌舞伎には、彼と宝井其角の交流を描く「松浦の太鼓」、義兄の話「腹切り魚の別れ」がある。
まんが「のらくろ軍曹」ではのらくろが演じ、煤竹売りではなくあんまになって吉良邸を散策した。
享年38。