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尾上松之助の忠臣蔵

1,569 バイト追加, 2021年6月21日 (月) 14:30
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{{Cinema|制作=横田商会|公開=1910|内蔵助=尾上松之助|星=3|頃=}}
最古に近い忠臣蔵映画と言われているそうです。近代フィルムセンターでは「実録 忠臣蔵」と呼んでいる作品。最古に近い、通しの忠臣蔵映画と言われているそうです。近代フィルムセンターでは「実録 忠臣蔵」。二条城撮影所誕生111周年では「最古の忠臣蔵」と呼んでいる作品
これがBS2で放送があったときは「明治43年〜大正6年頃」の製作であると、スーパーで入っておりますが、近代フィルムセンターは1910〜12年としている。「日本映画データベース」によると1910年(M43)としてあります。初代総理大臣の伊藤博文が暗殺された翌年。とにかくこの映画の43年前は江戸時代ですよ。すごい昔の映画。
女性キャラは[[大石りく|山科の閑居]]も[[浮橋太夫|島原]]でもみんなおっさんが演じています。「男女混合映画」の起源を知りたくなりました。<small>(※註01)</small>
坊主頭はヅラ。ハダカ(刺青姿)は襦袢と、コレも新鮮。
300年も前から長い間愛されてる「忠臣蔵」なんだから当たり前なのだが、映画の技術は未熟でも、扱ってるエピソードがいまに伝わるおなじみのアレコレがすでに完成されており、歴史を感じる。もう一回見ようっと。(1時間半ぐらいの作品)
 
 
 
(附言)
 
トーキーになってからの再編集版と思えるバージョンもあって、2014年にCS衛星劇場で放送した際(大林宣彦監督の解説付き)は、巴うめ子さんなる浪曲師(詳細不明)のうなりで映画が始まり、本編には会話シーンに何人(役者か弁士)かのアフレコが入っていた。
 
 
※註01…女優が不在で女形がスタンダードだったことは確かだが、それまでにも1900年代には女芝居の映画があったことは、あったそうであります。活動写真を映画と称するに及ぶ、次のステージへの昇華が「純映画劇運動」なるものによってもたらされ、1918年に「舞台脚本ではなくシナリオを!女形ではなく女優を!弁士ではなく字幕を!」と叫んだ帰山教正監督が女性を出演させる映画を撮り、1920年に松竹が映画製作に乗り出すと、ハリウッドの作り方などの影響で次々に女優が登場するようになり、やがてそれがスタンダードになったようであります。<small>(四方田犬彦「日本映画史110年」集英社新書)</small>
 
・田村邸で検視役から切腹をおおせつかる内匠頭。(このあと一旦引っ込んでそのまま現存する切腹場のセッティングになる)。
・祇園。[[村上喜剣]]とは別に内蔵助を斬ろうとする武士のシーン。たぶん見かぎった浪士仲間。と竹井金右衛門が内蔵助を見限って斬ろうとするシーン。(竹井は[[吉田忠左衛門]]の偽名だが、ここではブチ切れる大石のファン。)
・東下りの時に人足が禁裏御用の荷物を運ぶシークエンスの尻切れトンボだったコミカルなシーンの「オチ」・東下りの時に人足が禁裏御用の荷物を運ぶシークエンスの尻切れトンボだったコミカルなシーンの「オチ」([[武林唯七]]の講談のバリエ。)
・旅籠・近江屋に[[立花左近]]が到着するシーン
・出し抜けに「毎度有難う御座居ます」の文字。
・泉岳寺で[[浅野内匠頭|冷光院様]]の墓前でだれかわからないが女性が現れて(勝山髷の形から戸田??)、白紙を咥えて扇子で顔を覆うようにしたりして(舞い?)、吉良の頭部を短刀でペシペシして彼女の両脇をの墓前で[[阿久里/瑤泉院|瑤泉院]](と、思ったけど活弁によれば[[戸田局]]である)が現れて、白紙を咥えて扇子で顔を覆うようにしたりして、吉良の頭部を短刀でペシペシして彼女の両脇を[[武林唯七|竹林唯七]](作中の表記ママ)ともうひとりが弓を掲げて3人でポーズする儀式。(なんでしょう?弓取りの一種?)(作中の表記ママ)ともうひとりが弓を掲げて3人でポーズする儀式。(<たぶん首実検)
などなど。
近代フィルムセンターでは近い将来「最長版」を作りたいと研究員さんがMCでおっしゃってました。(加筆:同年12月、最長版公開に至るが、もりいは赤穂義士祭の実況のお仕事に出かけるため観られない(泣)。)近代フィルムセンターでは近い将来「最長版」を作りたいと研究員さんがMCでおっしゃってました。(加筆:同年12月、最長版公開に至るが、もりいは赤穂義士祭の実況のお仕事に出かけるため観られなかった(泣)。2021年3月二条城撮影所誕生111周年でも上映。弁士はいずれも片岡一郎さん。)

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