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小学校に上がるや、担任による「給食を全部食べなければ帰宅を許さない」という所謂「完食教育」の体罰が効いて、会食恐怖症となり、元来、ひとりっ子で独占欲が強く、食い意地が張ってるはずのもりいには、この症状は卒業するまで給食が苦痛でしかなかった(香りや味が良い思い出として残っていてもである)。 小学校に上がるや、担任による「給食を全部食べなければ帰宅を許さない」という所謂「完食教育」の体罰が効いて、会食恐怖症となる。元来、ひとりっ子で独占欲が強く、食い意地が張ってるはずのもりいには、この症状は小学校を卒業するまで給食を、苦痛な時間に変えてしまった(香りや味が"良い思い出"として残っていてもである)。 いつスイッチが入るかわからないこのコンプレックス(「平らげなければ!」という強いプレッシャーを感じると、とたんに胃腸が活動を止めて喉がつまり、吐き気とともに食べ物を飲み込めなくなる症状)には40歳を過ぎてもときどき苦しめられたが、忠臣蔵に目覚めた2008年、故・国本武春師匠にご馳走になった成田の『川豊』本店のうな重を食べ残したのを最後に、なぜか(ようやく)憑き物が取れたように、すっかり克服できた。
いつスイッチが入るかわからないこのコンプレックス(「平らげなければいけない!」という強いプレッシャーを感じると、とたんに食べ物を飲み込めなくなる)には40歳を過ぎてもときどき苦しめられたが、忠臣蔵に目覚めた2008年、故・国本武春師匠におごってもらった成田の川豊本店のうな重を食べ残したのを最後に、なぜか(ようやく)すっかり克服できた。
テレビや漫画ばかり見ていてあまりに勉強しないので、罰として親に漫画本のすべてを破棄されるが、クオリティの高い手塚治虫(<ちなみに先生は「 当時連載中の『ブラック・ジャック』にいたく感動したわたしは、親友の長沼くん(現・菊地成孔さんマネージャー)といっしょに、少年チャンピオンまで手塚先生宛にファンレターを送ったが、編集部からのみ返事をいただき、同封したイラストを本誌に掲載してもらった。 テレビや漫画ばかり見ていてあまりに勉強しないので、罰として母親に漫画本のすべてを破棄されるが、クオリティの高い手塚治虫(<ちなみに先生は「'''[[わんわん忠臣蔵]]'''」原案を担当している。手塚プロのある高田馬場は'''[[堀部安兵衛|中山安兵衛]]の決闘'''で有名。晩年に「七色いんこ」という作品で'''忠臣蔵'''のパロディを扱ってらっしゃいました。)作品だけは、父の情けで読んでいいというお赦しが出る。(当時俗悪とされたテレビ番組「8時だヨ!全員集合」「うわさのチャンネル」についても視聴禁令が敷かれた)のパロディを扱ってらっしゃいました。)作品だけは、父の情けで読んでいいというお赦しが出る。(当時、俗悪とされたテレビ番組「8時だヨ!全員集合」「うわさのチャンネル」についても視聴禁令が敷かれた)
テレ東版の珍訳「ゾンビ」(いわゆるサスペリア版)に腹を立てて友人とアフレコしなおしたり、学園祭では16ミリフィルムでアニメ撮影&上映などして遊び、日替わりの特撮映画を見に定期券を買って有楽町の日劇まで「ゴジラ映画大全集」に日参するなど、オタクの一面もこの頃に育つ。(のちにアニメの脚本を多く手掛ける明大の学生当時の関島眞頼氏と毎日のように会ってるうちになつき、ある日、吉野家の牛丼をごちそうになって「この世にこんなうまいものがあるのか」と感激する。) テレ東版の珍訳「ゾンビ」(いわゆるサスペリア版)に腹を立てて友人とアフレコしなおしたり、学園祭では16ミリフィルムでアニメ撮影&上映などして遊び、日替わりの特撮映画を見に定期券を買って有楽町の日劇まで「ゴジラ映画大全集」に日参するなど、オタクの一面もこの頃に育つ。(←このイベントで、のちにアニメの脚本を多く手掛ける明大の学生当時の関島眞頼氏と毎日のように会ってるうちになつき、ある日、吉野家の牛丼をごちそうになって「この世にこんなうまいものがあるのか」と感激する。)
あまりにも勉強をしないため、母親がくすおをお祓い(祈祷だったかな。東十条あたりの寺?)に連れて行ったこともあったが、もちろん改善されず、たまに頑張るとテストの成績は良かったので、勉強以外に楽しいことが多すぎてモチベーションが上がらないだけなんだなと自覚していた。 中3の頃、B5サイズの壁新聞を自主的に掲示板に貼るようになり、始めは担任にチェックしてもらっていたが、教員の告発系の記事もあったので、担任に検閲されたのをキッカケに、タイトルに「無許可」の文字を入れてゲリラ的に貼るようになった。次第に、リリース日になると、ほかのクラスからも掲載を楽しみに見に来てくれる人も増えていった。担任を含め、教室を訪れる各教員も、読みこそはすれ、誰もをそれを剥がすことはなかった。 いっぽう、あまりにも勉強をしないため、母親がくすおをお祓い(祈祷だったかな。東十条あたりの寺?)に連れて行ったこともあったが、もちろん改善されず、たまに頑張るとテストの成績は良かったので、勉強以外に楽しいことが多すぎてモチベーションが上がらないだけなんだなと自覚していた。
この学校は最寄りが早稲田駅であり、言うまでもなく この中高は最寄りが早稲田駅であり、それは言うまでもなく'''[[堀部安兵衛]]の高田馬場の決闘'''の現場に近い。学校に隣接した瑞光寺さんは'''[[間十次郎]]ご一家の菩提寺'''で、学校の裏にあたる月桂寺は講談で'''[[鳥居理右衛門]]が門前で槍術指南をした'''場所とされる。
日露戦争で活躍された乃木希典大将のお父さんは、現在のもりいの作業場から5分ほど行った 日露戦争で活躍された乃木希典大将の息子さんたちも、もりいの高校の先輩である。乃木大将は赤穂義士ファンであったので、毎月命日には息子さんの手を引いて泉岳寺にお参りに行ったという。 乃木大将のお父さんは、現在のもりいの作業場から5分ほど行った'''長府藩毛利家'''に仕えていた藩士で、大将は藩邸内の長屋出身だそうだが、現在「六本木ヒルズ毛利庭園」のここは、'''赤穂義士終焉の地'''でもある。乃木大将は赤穂義士ファンであったので、毎月命日には息子さんの手を引いて泉岳寺にお参りに行ったというが、その息子さんたちも、もりいの高校の先輩である。でもある。
石ノ森先生との出会いで、絵で食べていこうと活路を見出し、東横線菊名の美大予備校に通い始める。 石ノ森先生との出会いで、絵で食べていこうと活路を見出し、東横線菊名の美大予備校(系の画塾)に通い始める。
ちなみに、1996年から始めたブログは現在まで、ほぼ毎日続いている。(リニュアルの関係で2008年から閲覧可能)> ちなみに、1996年から始めたブログは現在まで、ほぼ毎日続いている。(リニュアルの関係で2008年から閲覧可能)>[https://www.kusuo.com/?cat=4/ 「くすお画主主義共和房」]
自宅も転宅したがそこはたまたま 自宅も転宅したが、そこはたまたま'''最初の江戸下向で大石が安兵衛と会談した'''、そして'''大石の命令で[[原惣右衛門]]らが作戦のために会合場所として屋敷を買った三田らが作戦のために会合場所として屋敷を買った'''だった。ちなみに、'''赤穂の浪人を影でサポートした前川忠太夫'''の住んでいた、'''『学問のすゝめ』で『赤穂不義士論』を展開した福沢諭吉が住んでいた'''、三田だった。ちなみに[http://blog.kusuya.net/?eid=901 イタリア大使館]('''[[大石主税]]'''や'''[[堀部安兵衛]]'''終焉の地。伊予松山藩・'''松平隠岐守の中屋敷跡'''。)の目と鼻の先。
2006年、翌年亥年の年賀状に 2006年、翌年亥年の年賀状に'''[[通し狂言 仮名手本忠臣蔵|仮名手本忠臣蔵]]の五段目'''に出てくるイノシシを描こうとにわかに思いたち、友人に結婚のお祝いに似顔絵を描く代わりにと仮名手本忠臣蔵のDVDを無心。ここで初めて歌舞伎をじっくり見る(DVDだけど)。(結局年賀状は制作せず仕舞い。)に出てくるイノシシを描こうとにわかに思いたち、友人に結婚のお祝いに似顔絵を描く代わりにと仮名手本忠臣蔵のDVDを無心。ここで初めて歌舞伎をじっくり見る(DVDだけど)。当時のブログに「ハマるかもしれない」と記述。(結局年賀状は制作せず仕舞い。)
'''Kusuo Morii''' (b. November 23, 1965) is a Japanese Illustrator illustrator and comics artist , best known as a The the producer of the encyclopedia The Encyclopedia of '''Chūshingura''' where is , the largest in one on this planet.
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[[画像:gozaru.jpg|thumb|2016.03月 国立演芸場楽屋にて]]
もりい くすお(男性、1965年11月23日 - )は、日本のイラストレーター。声優(?)。本名:同じ。WEBやテレビなどのメディア、書籍、雑誌等の印刷物、企業案件、店鋪、寺社仏閣などに絵を提供している。)は、日本のイラストレーター。コンテンツクリエーター。声優(?)。本名:同じ。WEBやテレビなどのメディア、書籍、雑誌等の印刷物、企業案件、店鋪、寺社仏閣などに絵を提供している。
東京都港区・東京慈恵会医科大学附属病院で生まれる。
この病院は、討ち入りのあと'''[[堀部安兵衛]]'''や'''[[大石主税]]'''、'''[[不破数右衛門]]'''らが最初に落ち着いた愛宕下の伊予松山藩・松平隠岐守の上屋敷跡(しっかり古地図を見ると、じゃっかんズレてるが黙っていようっと!)。ちなみに'''[[堀部弥兵衛|堀部家]]菩提寺の青松寺'''の真っ正面。また'''[[畳屋|畳替え事件]]の増上寺'''の近所であり、何度も'''[[浅野内匠頭]]'''や'''[[大石内蔵助]]'''を演じた片岡千恵蔵の終焉の地でもあります。を演じた片岡千恵蔵や長谷川一夫の終焉の地でもあります。
(慈恵看護専門学校の前身、看護婦教育所は鹿鳴館バザーの収益で建てられたが、開催は新発田藩・溝口家12代藩主の娘から有栖川家に嫁いだ栄姫(はるひめ。結婚して董子…ただこ)さんによるものである。'''[[堀部安兵衛]]'''は溝口家から姓を分けてもらってる一族。父・'''中山弥次右衛門'''は藩士。)
先祖は'''[[大石内蔵助]]の閑居があった京都の山科'''の近所の出だと勘違いしていた時期があったが(高祖母が木村荘平の愛妾だったから)、実際は相対替え前の'''[[浅野内匠頭|赤穂浅野家]]'''下屋敷があった、'''[[伊達左京亮|伊達家]]'''のお屋敷があった麻布は仙台坂のそばのおっさんの子孫だった。
父親は、麻布高校の出身で、'''[[間十次郎]]一家'''の子孫であるメディア界の重鎮・羽佐間重彰さんの後輩。2019年に私がの子孫であるメディア界の重鎮・羽佐間重彰さんの後輩。2019年に私が'''赤穂義士祭'''でMCをご一緒させていただいた小日向えりさん(当時 歴ドル)出身の横浜国立大学を卒業した、秋葉原のデザイン会社の取締役。彼は、くすおが忠臣蔵にハマった元年、「いかにも史実であるかのように家柄の良い'''高家筆頭の[[吉良上野介]]'''を悪者に仕立て上げるのは気に入らん。ありゃあ 義士じゃねえんだよな。浪士なんだよな。」と、初回からガミガミとアンチな態度で改宗を迫った。歴ドル)出身の横浜国立大学を卒業した、秋葉原のデザイン会社の取締役。衒学的な独話ナルシストタイプ。
彼は、くすおが忠臣蔵にハマった元年、「いかにも史実であるかのように家柄の良い'''高家筆頭の[[吉良上野介]]'''を悪者に仕立て上げるのは気に入らん。ありゃあ 義士じゃねえんだよな。浪士なんだよな。」と、初回からガミガミとアンチな態度で改宗を迫った。 いっぽう、母親のほうは泉岳寺そっくりの'''四十七義士の墓'''があり(興宗寺〜こうしゅうじ〜)、ベストセラー'''「元禄快挙録」'''の著者・福本日南の出身地でもある、福岡県(母は、'''寺坂吉右衛門'''の墓のある八女の近所の、久留米出身)の出身でありながら、「忠臣蔵」と聞いても「…はぁ、時代劇ね?」というくらいの、フリーの経理事務の人(息子の没頭に対するリアクションは、こちらを歓迎したい)。くすおはそういう家柄のもとに生まれた。の墓のある八女の近所の、久留米出身)の出身でありながら、「忠臣蔵」と聞いても「…はぁ、時代劇ね?」というくらいの、フリーの経理事務の人(息子の没頭に対するリアクションは、こちらを歓迎したい)。個性や独自の価値観を個別に捉えるよりも、ごくありふれた分類で世界を見るステレオタイプ思考。 くすおはそういう家柄のもとに生まれ、育った。
物心ついた時からすでに絵を描くのが好きだったくすおは、幼稚園([[おニャン子版忠臣蔵|「夕ニャン」]]で'''[[浮橋太夫]]'''をやった工藤静香が編入&中退し、'''[[ホリ|堀部安兵衛の妻・ホリ]]'''を演じた[https://www.kusuya.net/%E3%83%9B%E3%83%AA#/media/File:Fukatsu_hori.jpg 深津絵里]が卒業した、日本音楽高等学校の付属幼稚園)の頃から「モーレツア太郎」や「帰ってきたウルトラマン」を描いておともだちに喜ばれては、得意になっていた。
雑誌の「テレビランド」や「小学四年生」「小学五年生」に投稿して絵を掲載してもらう印刷初体験をする。同時期に「おはようこどもショー」のコーナーでつボイノリオの背景に絵を採用された放送電波初体験もした。(放送をした日本テレビは当時'''赤穂浪士が潜伏した麹町'''にあったが、現在、汐留の'''仙台藩芝口上屋敷跡'''にある。討ち入り後に赤穂浪士に粥を振る舞ったお屋敷である)
勉強のじゃまになったり、他人の机を落書きで汚したり、いかがわしい絵を描いたりという悪行に対してしばしばマンガ全般禁止令が出るが、今にして思えば抑圧はますます「描きたい」という情熱を奮い立たせた。
== 10代 ==
小学生時代に、「ジョーズ」や「タワーリングインフェルノ」や「犬神家の一族」をきっかけとしてハマった映画鑑賞だったが、中学生になってから、深作欣二の「'''[[赤穂城断絶]]'''」に出会う。いわばもりいくすおが真っ正面から接した忠臣蔵ファーストコンタクトである。(でも、この時点ではまだ忠臣蔵にハマっていない)
アメリカの風刺雑誌MADと巡り会い、モート・ドラッカーの作風に憧れる。
'''「[[怪獣総進撃]]」'''や「ゴジラ対メカゴジラ」をノートにコミカライズしたり、クラスメイトを登場させる巨大ヒーロー物や野球漫画を描いては回し読みしてもらってたが、人気に図に乗ってたらいつの間にかクラス全員から無視される羽目になり、猛省する。
とにかく都バスで6年間、登下校の際、'''[[堀部安兵衛]]の自宅のあった牛込'''柳町を行き来した。
学校の先輩に、'''[[清閑寺熙定|清閑寺中納言]]'''を演じた上原謙や'''[[大石内蔵助]]'''その他を演じた[[丹波哲郎]]。'''[[間十次郎]]'''の子孫でアナウンサーの羽佐間正雄氏がいる。
このころ、雑誌「ぴあ」に毎号似顔絵パロディイラストを読者投稿して掲載してもらうなどしていたが、高2のある日、縁あって「仮面ライダー」や「'''マンガ日本の歴史・忠臣蔵と生類憐み'''」で有名な石ノ森章太郎先生にマンガを見てもらい、とりあえず悪く言われなかったことですっかりその気になり、絵描きの道を目指す。お礼に出かけた場所が国立演芸場の楽屋だったことも手伝ってか、ソワソワするもりいの様子を見たその時の先生のアドバイスは「きみは噺家をめざしたほうがいいんじゃないか?」だった。
自分の絵心に対する、周囲の褒めそやしが影響してか「どうにかなるだろう」と、たかをくくって、学業パフォーマンスを上げる努力を一切しなかったので、学科試験の多い美大受験は諦め(それでもタマビは受験して不合格。ムサビは願書を出し忘れた)、予備校の講師のすすめもあって、ハナから都心にあって通いやすい桑沢デザイン研究所(後述)に狙いを定めてデッサンや色彩構成の受験勉強に専念をした。
高校卒業後は、渋谷の専門学校桑沢デザイン研究所(先輩に'''[[田村右京大夫|田村]]'''邸跡で切腹最中を売る新正堂さん社長夫婦)でグラフィックデザインを学ぶ。課題の多さにヘトヘトになり押しつぶされそうになると、浅草東宝に「クレージーキャッツ特集」をオールナイトで見に行っては正気をたもった。
在学中に、刃傷事件のあった'''江戸城の、内匠頭が駕籠で出てった平川門'''の近所の小学館の「ビッグコミックスピリッツ増刊号」からデビュー。公募に出した作品を江上英樹氏に拾っていただき、立川義剛氏に育てていただいた。の近所の小学館の「ビッグコミックスピリッツ増刊号」からデビュー。公募に出した作品を江上英樹氏に拾っていただき、氏が江口寿史さんの新連載担当になって離脱。立川義剛氏に育てていただいた。
ただ、慣れない商業誌向けマンガよりも、デザイン畑での研修用マンガや社内報などインナー向け制作や、広告などアドバタイジング分野のほうが腕を振るえ、報酬も良かったのため、結局イラストレーターとしての道を歩み始める。
そうした20〜30代は、特に忠臣蔵を意識することもなく生きていたが、それでもなぜか年末の忠臣蔵映画を録画したり、大河ドラマの「'''[[元禄繚乱]]'''」を毎週録画したりしていた。(それでもまだ、この時点で忠臣蔵にハマっていない)
やがて2005年、40代になって、若き'''[[堀部安兵衛|安兵衛]]'''が江戸に来て最初に住んだ、'''[[神崎与五郎]]'''が「美作屋善兵衛」を名乗って町民に化けていた、'''[[寺坂吉右衛門]]'''の墓のある、'''[[吉良上野介]]'''の下屋敷があり、愛人の家もあった、'''赤穂浅野家、藩祖の長友(忠臣蔵の浅野内匠頭のおじいさま)時代まで下屋敷'''があった、もりいの本籍地でもある、麻布に仕事場を引っ越し新装開店。(江戸城の鬼門から裏鬼門に引っ越したわけである)
この時点でも、まだ忠臣蔵にはハマっていないが、地の利とでも言うのだろうか、タイミングとしてはあきらかにこの引越がターニング・ポイントといえる。
[[画像:Tape.JPG|thumb|2008.09月 国本武春氏から借りたテープ。このほか講談本なども拝借。]]
そして運命の2007年末、北王子欣也の「[[忠臣蔵]]」のCS放送を見ながらいつも混乱する「忠臣蔵」の登場人物のメモをつけ、鑑賞する作品をとっかえひっかえしながらメモを続けているうちに、」のCS放送を見ながらいつも混乱する「忠臣蔵」の登場人物のメモをつけ相関図を作成。 その後も、見る作品ごとにアレンジが違うので、鑑賞する作品をとっかえひっかえしながらメモを続けているうちに、ついに、'''どんどん被れていってしまった'''。
雑誌やテレビの似顔絵の仕事が多かったので、練習もかねて登場人物の役者絵を仕事の合間に描いていたら仕事中もオフも絵と向き合うこととなり、それが楽しいウォーミングアップになった。おかげでいつ仕事へのシフトしても筆が軽やかになり、気が進まない仕事が激減した。
奇しくも、'''[[大石内蔵助]]'''の享年と同じ45歳の折、'''兵庫県赤穂市'''から「観光大使」を委嘱される。
…その後…
・フランスでの義士絵の販売(以下に詳細)。
・[http://www.tbs.co.jp/radio/kume954/guest/20141213.html 久米宏さん]や春風亭一之輔師匠のラジオ出演。や、[https://audee.jp/news/show/7558 春風亭一之輔師匠のラジオ]出演。
・テレビ3番組ほどの義士絵の提供。
Chūshingura are refers to fictionalized accounts in Japanese puppet showtheatre, theatrekabuki, and film that relate dramatize the historical incident involving of the '''47RONIN''' 47 rōnin and their mission to avenge the death of their masterlord, Asano Naganori.
もりいもその波動に巻き込まれたと思うと面白いです。
'''<好きになるキッカケエピソード3>'''
中動態説。
気がついたら調べており、絵を描き、作品を追っかけ、挙げ句にサイトまで作ってしまっていた。
哲学には「中動態」という概念があるそうで、「自分がした」とも「させられた」とも言いきれない、中間を指すという。
たしかに、もりいが忠臣蔵を研究したというより、人生の中で"忠臣蔵が起きてしまった"、と言うのが一番近い感覚な気がする。
本人としては、面白がって乗っかり続けているだけであります。