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もしかしたら監督は編集中に「これじゃまとまらねえや!」とブチ切れて、わざとフィルムを燃やしたのかも、と息子・マキノ雅弘は考えているようです。(出典:TBS系「あゝ、にっぽん活動大写真」/畠剛 著「松田定次の東映時代劇」)もしかしたら監督は編集中に「これじゃまとまらねえや!」とブチ切れて、わざとフィルムを燃やしたのかも、と息子・マキノ雅弘は考えているようです。<small>註01(「あゝ、にっぽん活動大写真」TBS/畠剛 著「松田定次の東映時代劇」)註01</small>
「その時の悔しさ、悲しさときたらありませんでした。辞めようと思いました…。」(別冊近代映画 昭和34年2月号)という、有名な逸話もあるので、怨念が効いたもかも知れません。「その時の悔しさ、悲しさときたらありませんでした。辞めようと思いました…。」<small>(別冊近代映画 昭和34年2月号)</small>という、有名な逸話もあるので、怨念が効いたもかも知れません!?
「実録忠臣蔵」というタイトルのサイレント映画は尾上松之助主演の「実録忠臣蔵 松の間刃傷」(1910。横田商会)をかわきりに、その後1914年(会社不明)、1918年(日活)、1920年(国活)、1921年(日活)、1922年(松竹)(大活)、1923年(帝キネ)、1926年(日活)…と本作よりも前にいっぱいあるのでご混同あそばされませぬように。(出典:兵庫県赤穂市発行 「忠臣蔵」第五巻)「実録忠臣蔵」というタイトルのサイレント映画は尾上松之助主演の「実録忠臣蔵 松の間刃傷」(1910。横田商会)をかわきりに、その後1914年(会社不明)、1918年(日活)、1920年(国活)、1921年(日活)、1922年(松竹)(大活)、1923年(帝キネ)、1926年(日活)…と本作よりも前にいっぱいあるのでご混同あそばされませぬように。<small>(出典:兵庫県赤穂市発行 「忠臣蔵」第五巻)</small>
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監督は内蔵助役の伊井蓉峰という人ともめてたらしいが(伊井蓉峰という芸名の語源は「良い容貌」から来てるとか。当時にしては珍しく自家用車も持ってた成功者)この人とにかく監督の言うことを聞かなかったそうで、自己判断でものすごくクサいオーバーアクションで違和感を丸出し。監督は頭を抱えてしまい、当時の新聞には「神経衰弱」とも報道された。
註01…「映画で生きていこうと決めたのなら思い切って舞台はやめなさい」「判官やらせたるから」と牧野省三に言われた若き片岡千恵蔵は、この世界に入った片岡少年劇からの恩人&師匠の、片岡仁左衛門(11th)の追善公演を蹴って、義理を欠いてまで撮影所に駆けつけたのに、当てられた役は[[服部市郎右衛門]]と[[大高源五|大高源吾]]の二役だったという。「判官やらせるとは言ったが、内匠頭をやらせるとは言うてまへん」
<加筆>
仮名手本忠臣蔵からの脱皮を考えた牧野省三監督の造語と言われております(要出典 映画では牧野監督が最初かもだが、言葉自体は福地桜痴先生が最初で、1890年(明治23年)に歌舞伎座でそのタイトルで興行が打たれた。ちなみに7幕15話のうち、大詰にある「土屋家庭先」はその後独立し、いまでもしばしば見られる[[松浦鎮信|「松浦の太鼓」]]になった。)