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まず脱盟者を主役に立てた時点で、コレは「生きること」をテーマに掲げている事を意味する。ただ「まず脱盟者を主役に立てた時点で、コレは「生き続けること」をテーマに掲げている事を意味する。ただ「[[最後の忠臣蔵]]」のような"赤穂浪士が生き残ることの皮肉"をおもしろがってるのではなく、あくまで「死なないで生きること」(=命)への賛美がくりかえしうたわれる。をおもしろがってるのではなく、あくまで「命を大切にすること」への賛美がくりかえしうたわれる。
とはいえ規制解除ホヤホヤのこの年では、まだGHQの顔色がうかがわないといけない時代だったんじゃないだろうか。(とはいえ規制解除ホヤホヤのこの年では、まだGHQの顔色がうかがわないといけない時代だったようにも思う。(そう急展開で羽も広げられないんじゃないかと。'''討ち入りの戦闘シーンもまるっきり無い'''し。)それがこの映画の特別な個性を作ってる気がする。
それとも単純に、少女歌劇的な映画ばかり作ってた会社だからあえて毛色の違う忠臣蔵をやろうとしたのか。そんな検閲の中で、それでも「忠臣蔵を撮りたい」と思う情熱には、目が潤む。それとも単純に、少女歌劇的な映画ばかり作ってた会社だからあえて毛色の違う忠臣蔵をやろうとしたのか。
とにかく時代を反映した、プロテストソングっぽい物腰でありました。(加筆:「この作品はとにかく、本作は時代を反映した、プロテストソングっぽい物腰でありました。(加筆:「この作品は"元禄"という世代への批判」であると堂々と「元祿水滸伝」プレスでうたっている。)
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内蔵助さえも討ち入り前日にみんなを集めて「人間として生まれた以上、誰しも満足のために生きたい。私も命を捨てずに済むものなら捨てたくはござらん」などとわざわざみんなのテンションを下げるようなことをメンバーを前にしてキッパリ言う。(“死ではなく生”を選ぶ者たちの反骨のかんじが『水滸伝』っぽい?)
だが、ここで「ナンセンス」とカンタンに言えないのが、やはり、戦後だという時代背景=ややこしいバック・グラウンドでありまして、この映画がリリースされた1952年といえば、それまでは占領軍が上映禁止していた忠臣蔵モノの規制(復讐の肯定や謹皇な軍国主義に対する規制)が朝鮮戦争の影響で?やわらいだ年である。やわらいだ年ではなかったか。
ともかく時代に振り回され、いろんな規制のある中で、それでも「忠臣蔵を撮りたい」と思う情熱には、目が潤む。(先年に「羅生門」や「地獄門」などが海外で高く評価されたことが、いままで睨まれていた時代劇を作りやすいバックグラウンドを作ってるようにも感じる。)