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尾上松之助の忠臣蔵

47 バイト追加, 2026年1月8日 (木)
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ここまで古いと絵作りも相当いまの「映画」とは様子が違っております。据え置きのカメラがセット(と言っても思いっきり絵を描いたカキワリ〜よしもと新喜劇みたいなアレ〜がうしろにあるだけ)の前で舞台よろしく演技をする役者を淡々と撮ってるだけという、ほんと、「黎明期」というおもむき。ここまで古いと絵作りも相当いまの「映画」とは様子が違っております。据え置きのカメラがロングショットで、セット(と言っても思いっきり絵を描いたカキワリ〜よしもと新喜劇みたいなアレ〜がうしろにあるだけ)の前で舞台よろしく演技をする役者を淡々と固定フレームで撮ってるだけという、ほんと、「黎明期」というおもむき。
厳密に言うと、ほかの映画がつぎはぎで混ざってて、松の廊下の刃傷の時だけ急に奥行きのあるアングルになってる。撮影場所も本当のどこかの大きな廊下(もしくはセット。で、ちなみに衣裳も変わっており、吉良役の役者も違うように見える。)
※註01…女優が不在で女形がスタンダードだったことは確かだが、それまでにも1900年代には女芝居の映画があったことは、あったそうであります。活動写真を映画と称するに及ぶ、次のステージへの昇華が「純映画劇運動」なるものによってもたらされ、1918年に「舞台脚本ではなくシナリオを!女形ではなく女優を!弁士ではなく字幕を!」と叫んだ帰山教正監督が女性を出演させる映画を撮り、1920年に松竹が映画製作に乗り出すと、ハリウッドの作り方などの影響で次々に女優が登場するようになり、やがてそれがスタンダードになったようであります。<small>(四方田犬彦「日本映画史110年」集英社新書)(「日本映画史110年」四方田犬彦 集英社新書)</small>
1924年。尾上松之助の英雄豪傑映画がマンネリ化してることを危惧した義弟の池田富保は、女形を排して女優を使ったり、カットバックなどの編集や、カメラを動かす、と言った撮り方で映画を撮ったが、手間を億劫がった(&新しいやり方についていけなかった)スタッフやキャストから総スカンを喰らい、ほとんど一人でデビュー作「渡し守と武士」を完成させたとか。<small>(「日本映画発達史」田中純一 中央公論社)</small>