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実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻

694 バイト追加, 2026年2月3日 (火)
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[[画像:Maccyan.jpg|thumb|役者絵:尾上松之助]]
貴重な、尾上松之助、晩年(この公開年になくなっている)の「忠臣蔵」。貴重な、尾上松之助、晩年(この公開年に亡くなっている)の「忠臣蔵」。
当然といえば当然なのだろうが[[尾上松之助の忠臣蔵|16年前の「忠臣蔵」]]から日本映画も成長し、尾上松之助の貫禄も演技も、カメラの動きや構図のとり方もグッと「映画的」になっている。<small>(註01)</small>
当時の浅草帝国館のチラシには「廿壱日限り 前代未聞の大好評又々日延べ」「満員御礼のため本日より普通料金」とある。(それまで特別料金だったのか…)
もともと3時間あったと言われる本作は、1時間強のダイジェストになった状態で家庭用映画として保存されていたフィルムが発見され、[http://toyfilm-museum.jp/ おもちゃ映画ミュージアムさん]に寄贈されたものが公開されたのだが、それだけにクレジットに「[[鍔屋宗伴]]…大河内伝次郎」とあるのに本編に出てこなかったり<small>(※註01)(註02)</small>、討ち入りのときに女間者が吉良の面相を浪士に伝えるが彼女が誰の身内か謎であったりする(たぶん[[山岡覚兵衛]]の奥さんあたりじゃないかなあ)。
しかしそれら削除シーンが無くても、いろいろ独特なアレンジが残っている。すごく斬新に思えた。
というわけで、字幕と内容とに「おや」と思うところがちょいちょいあったのですが、なんでも本作は尾上松之助の一周忌(昭和2年)に『増補改訂忠臣蔵』と名を変えて上演しているそうであります<small>(※註02)(註03)</small>。その際大河内伝次郎の鍔屋宗伴とかが「増補」されたようで、「おや」と思う原因の手がかりなのかなと思っております。
※註01・・・本作は、ヒットしたいっぽうで「討ち入りまでの義士の苦心が不足してる」という批判もあったんで、人気急上昇の大河内傳次郎の[[鍔屋宗伴]]のエピソードを足して内容を整え、再ヒットを狙ったとされている。増補版では、講談とはまた違う、宗伴の協力ぶりが描かれていたようだ。<small>(朝日ソノラマ「大河内傳次郎 人と作品 その魅力のすべて」)</small>註01…そもそも池田監督は「撮りかた」に関しては革命児。
尾上松之助の英雄豪傑映画がマンネリ化してることを危惧した義弟の池田富保は、女形を排して女優を使ったり、カットバックなどの編集や、カメラを動かす、と言った撮り方で映画を撮った。しかしこのことは、手間を億劫がった(&新しいやり方についていけなかった)スタッフやキャストから総スカンを喰らい、ほとんど一人でデビュー作「渡し守と武士(1924)」を完成させたという。<small>(「日本映画発達史」田中純一 中央公論社)</small>
※註02…大正元年にMパテー商会、横田商会、吉沢商会、福宝堂が合併して日活が設立されるがトップの意見が合わず、おりからの不景気風に暖簾をあおられて、しばしば前に撮った映画にちょっぴり新しく撮ったのをつないで上映してしのいだことがあったそうです。註02…本作は、ヒットしたいっぽうで「討ち入りまでの義士の苦心が不足してる」という批判もあったんで、人気急上昇の大河内傳次郎の[[鍔屋宗伴]]のエピソードを足して内容を整え、再ヒットを狙ったとされている。増補版では、講談とはまた違う、宗伴の協力ぶりが描かれていたようだ。<small>(朝日ソノラマ「大河内傳次郎 人と作品 その魅力のすべて」)</small>  註03…大正元年にMパテー商会、横田商会、吉沢商会、福宝堂が合併して日活が設立されるがトップの意見が合わず、おりからの不景気風に暖簾をあおられて、しばしば前に撮った映画にちょっぴり新しく撮ったのをつないで上映してしのいだことがあったそうです。

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