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吉良上野介
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実際に欲深さと横柄さには定評のあった人だそうで<small>(「吉良上野介の正体」佐佐木杜太郎 エルム刊/「上杉と吉良から見た赤穂事件」青木昭博 小林輝彦共著 米沢信用金庫叢書)</small>、親戚関係の津軽公の家来も吉良の態度にブチ切れて殺そうとした過去もあるとか。<small>(「戦国と幕末」池波正太郎 角川文庫)</small>
討ち入りされて一家断絶になっちゃったが、吉良さんはなにげに'''三河では今も名君として評判がいい'''。
・・・とは言うものの、悪者だって家に帰れば良き夫、良き父にかわることはよくあることで、領地からしぼりとらなくたって吉良ほどの財産と名声があればなおのこと……とは池波正太郎氏の談。<small>(「戦国と幕末」角川文庫/「忠臣蔵と日本の仇討ち(中央公論社<「歴史と人物(S46.12月号)」抜粋)」)</small>だが一説には、当時の吉良氏は赤字だったとも言われ、地元農民が新田開発をがんばった際は免税となり、収入も無い時もあったとか。(要確認) いっぽうで、将軍の代理で京都に出かけるなど、旅費や(衣装代も)いちいち莫大なお金もかかり、あっちこっちに相当なツケがたまり、たよりにしたい上杉家も借金があって、火事があったり地元が洪水にあったり、家内の懐事情は相当厳しかったという話もある。<small>(「開館30周年記念特別展 元禄赤穂事件」図録コラムby 谷口眞子 赤穂市立歴史博物館)</small> また一説には、地元農民が新田開発をがんばった際は免税となり、収入も無い時もあったとか。(要確認)
現代にも一部が残る堤防を作ったことと、農耕用の駄馬にまたがって現場を視察したと伝えられる親近感が、名君の根拠となっている(要確認)が、そのあたりがうまく構成されているのが、稲田和浩先生作の浪曲「赤馬の殿様」である。東家孝太郎師匠の持ちネタ。