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忠臣蔵 花の巻雪の巻

1,107 バイト追加, 2024年4月21日 (日)
編集の要約なし
註04…最初の記述から8年ほど経って、あらためて観ますと、高田の結末と本筋とのカラミが実にみごとで、そのあとのシーンとの流れもうまく機能していて、いまは好き。
「大石東下り」は未だに気になる上に、あるシーンで大幅に削除されたことが伺える。「大石東下り」は未だに気になる上に、よく見ると削除されたシーンがあるんじゃないか?。などと思ったりもした。それが違和感を生んでるんじゃないかと。
大石内蔵助は、[[垣見五郎兵衛]]でも[[立花左近]]でもない、尾花光忠という、忠臣蔵ファンには聴いたこともない人物の名を語って東下りをするのだが、本物の尾花光忠が現れて「いつもの」パターンになるのではなく、尾花と面識のある地元の役人が会いに来る。これを宿屋の主人であるモリシゲが間に入って、大石に会わせまいとするのだが、その手管(実際にご覧になってご確認ください)と、大石をかばおうとする根拠が、ちょっと弱い。(やはり、「大石東下り」は、似た風格の武士ふたりの短い対決が見もののシーンなのであります。)大石内蔵助は、垣見五郎兵衛でも立花左近でもない、尾花光忠という、聴いたこともない人物の名(個人の感想です)を語って東下りをするのだが、そこに本物の尾花光忠が現れて「いつもの」パターンになるのではなく、宿屋に尾花と面識のある地元の役人が会いに来る。これを宿屋の主人である森繁久彌演じる主人(以下モリシゲ)が間に入って、大石に会わせまいとするのだが、その手管(宿泊した院使にお小遣いを工面した際に礼にもらったサインを役人に見せて有無を言わせない)と、大石をかばおうとする根拠も伝わってこず、ラフプレーに見えてちょっと弱い。
まんまとごまかされて宿屋をあとにする役人だが、その際になぜかみな、酔っ払っている。おそらく、たらふくごちそうをされて煙に巻かれたのだろうと予想できるが、そのシーンが無い<small>(後述)</small>。まんまとごまかされて宿屋をあとにする役人だが、その際になぜかみな、酔っ払っている。おそらく、たらふくごちそうをされて煙に巻かれたのだろうと予想できるが、そのシーンが無いのだ。
そればかりではなく、本作には「あ、この後、なんかあったな」と想像させる、役者がセリフを言おうと息を呑んだところでカットになるシーンも少なくなく、逆に、たとえば安兵衛が玄蕃を酔い潰そうとしたであるとか、そのとき赤穂浪人の悪口を言ったであるとか、セリフだけでは不自然な、「この前になんかあったな?」と思わせるシーンもある。南部坂の三次浅野家屋敷内には侍女に藤山陽子がいるが、いるだけでセリフが無いし(ま、この人は黙ってたほうがいいのかも…w)。適度なランニングタイムにするために相当な削除がなされていると想像できる。こうした「あった筈なのでは?」と思わせるシチュエーションはほかにも、たとえば安兵衛が玄蕃と飲んでて赤穂浪人の悪口を言ったであるとか、台詞ベースだけで存在しないシーンがいくつかある。最初わたしは適度なランニングタイムにするために相当な削除がなされていると想像した。
ところが、当時のシナリオの決定稿を取り寄せて確認してみると、あにはからんや「宿屋(脚本では”本陣"としてある)の主人にまんまとごまかされる役人」たちがごちそうされるシーンはもともと存在せず、ト書きに「荒賀たち役人、出て行く。少し酒が入っているらしい。」とあるだけ。ついでに言うと、自分を親の仇と付け狙う若者の名前を三平がなぜ知ってたかとか、先述の安兵衛が玄蕃に言う「赤穂浪人の悪口をほざいた」というシーンも、カットされたのではなくそもそも脚本に無い。短いシチュエーションやセリフから「推して知れ」ということだった。
<附言>…2022年7月。国立映画アーカイブ(長瀬記念ホール ozu)の「東宝の90年 モダンと革新の映画史」で上映されたとき、ほかの観客(東宝映画やスターをこころえていて、金語楼や脱線トリオが出てくるだけで笑える世代)と一緒に見ていると、このシーンの印象はかなり違った。「森繁が"東下りみたいなことをしている"」ということで用意されたシチュエーションを観客は素直に受け入れ、忠臣蔵的な理屈を超越したなにかが場内で成立していた。これはお茶の間でDVDで見ているだけでは見つからない機能である。(あと、旭堂南湖先生の「大石東下り」に近衛関白の直筆、というものが権威あるアイテムとして登場してたんで、この映画のシチュエーションもあながち「設定が甘い」などと言えないのかも)で、じつは、モリシゲが役人を煙に巻いたあと女房と二人でいるシーンが脚本ではもう少しやり取りが長く、内蔵助に白紙を見せられたときの斟酌や決心。自分が正しいことをしたという気持ちを女房に打ち明けている。
当時のシナリオの決定稿を取り寄せて確認してみると、あにはからんや「宿屋の主人にまんまとごまかされる役人」たちがごちそうされるシーンはもともと無く、ト書きに「荒賀たち役人、出て行く。少し酒が入っているらしい。」とあるだけ。(ほかにも、自分を親の仇と付け狙う若者の名前を三平がなぜ知ってたかとか、安兵衛が玄蕃に言う「赤穂浪人の悪口をほざいた」というシーンも、カットされたのではなくそもそも脚本に無い。短いシチュエーションやセリフから「推して知れ」ということだった。)「白紙(しらかみ)の目録を見せられたとき、わたしはピン!ときたんだ。大石さまは、日本中の人間が思わずそうだ!と手を叩くようなことをしようとしておられるのだ。はっきりそんな気がしたんだ」
それよりも、モリシゲが役人を煙に巻いたあと女房と二人でいるシーンは脚本ではもう少しやり取りがあって、内蔵助に白紙を見せられたときの真意や決心。自分が正しいことをしたという気持ちを吐露している。役人を騙すという暴挙に出た理由をしっかり吐露させているのである。あとで役人に嘘がバレて咎められ、本陣が休業に追い込まれるかもしれないリスクも承知の上で、ちょっとメシア症候群みたいに突っ走り、女房が妊娠してることに希望を託して自我を保っている。それなら納得だ。
森繁久彌と淡路恵子の宿屋(本陣)のシークエンスは、シナリオ上ではラストも飾っていて、けっこうなキーパーソン扱いだ。夫婦は雲水(行脚の僧)となった寺坂吉右衛門(生きてた![[石束源五兵衛|但馬]]に向かう途中なのである。)を見送ったあと、生まれた赤ん坊に「お前の代になったら、この話は大きな声で話せるようになるぞ」と語りかけている。もっと言うとモリシゲと淡路恵子の本陣のシークエンスは、シナリオ上ではラストも飾っている。
シナリオ段階の宿屋夫婦には狂言回しのような機能があったので、真ん中の省略とラストの削除は、結局のところ登場シーンを中途半端にし違和感を残す構成にしてしまったと思う。夫婦は雲水(行脚の僧)となった寺坂吉右衛門(生きてた!但馬に向かう途中なのである。)を見送ったあと、生まれた赤ん坊に「お前の代になったら、この話は大きな声で話せるようになるぞ」と語りかけている。
シナリオでは序盤…中盤…終盤と、定期的に大衆目線のモリシゲ夫婦が出てくることで、彼らの有用性と時間の経過。また赤穂事件が後世にまで語り継がれる未来について言及して、作品全体を柔らかくまとめる役割がかなり重たく働いているのに、中盤を一部削除してラストをまるまるカットすることで、ひじょうに中途半端な…それどころか違和感まで残すクオリティになってしまっている。 
 
ただ、このモリシゲのシーンは、2022年7月。国立映画アーカイブ(長瀬記念ホール ozu)の「東宝の90年 モダンと革新の映画史」で上映されたとき、ほかのおおぜいの観客(東宝映画やスターをこころえていて、金語楼や脱線トリオが出てくるだけで笑える世代)と一緒に見ていると、印象がかなり違った。
 
「モリシゲが"東下りみたいなことをしている"」ということで用意されたシチュエーションを観客は素直に受け入れ、理屈を超越したなにかが場内で成立していた。これはお茶の間でDVDで見ているだけでは見つからない効果である。
 
そうした役者の存在感で削除シーンをカバーする手法もありと言えばありだが、今回のように、映画全体の印象を変える編集は、脚本家にとっては残念なことではなかっただろうか。
 
ちなみに、モリシゲが院使の書いたサインを見せて役人を騙すシーンをディスりましたが、旭堂南湖先生の講談「大石東下り」に近衛関白の直筆、というものが権威あるアイテムとして登場してたんで、この映画のシチュエーションもあながち「設定が弱い」などと言いきれない。

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