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忠臣蔵 花の巻雪の巻

80 バイト追加, 2024年4月21日 (日)
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「大石東下り」は未だに気になる上に、よく見ると削除されたシーンがあるんじゃないか?。などと思ったりもした。それが違和感を生んでるんじゃないかと。
大石内蔵助は、垣見五郎兵衛でも立花左近でもない、尾花光忠という、聴いたこともない人物の名(個人の感想です)を語って東下りをするのだが、そこに本物の尾花光忠が現れて「いつもの」パターンになるのではなく、宿屋に尾花と面識のある地元の役人が会いに来る。これを宿屋の主人である森繁久彌演じる主人(以下モリシゲ)が間に入って、大石に会わせまいとするのだが、その手管(先年に宿泊した院使にお小遣いを工面した際に礼にもらったサインを役人に見せて有無を言わせない)と、大石をかばおうとする根拠が伝わってこず、ラフプレーに見えてちょっと弱い。大石内蔵助は、[[垣見五郎兵衛]]でも[[立花左近]]でもない、尾花光忠という、聴いたこともない人物の名(個人の感想です)を語って東下りをするのだが、そこに本物の尾花光忠が現れて「いつもの」パターンになるのではなく、宿屋に尾花と面識のある地元の役人が会いに来る。これを宿屋の主人である森繁久彌演じる主人(以下モリシゲ)が間に入って、大石に会わせまいとするのだが、その手管(先年に宿泊した院使にお小遣いを工面した際に礼にもらったサインを役人に見せて有無を言わせない)と、大石をかばおうとする根拠が伝わってこず、ラフプレーに見えてちょっと弱い。
まんまとごまかされて宿屋をあとにする役人だが、その際になぜかみな、酔っ払っている。おそらく、たらふくごちそうをされて煙に巻かれたのだろうと予想できるが、そのシーンが無いのだ。
こうした「あった筈なのでは?」と思わせるシチュエーションはほかにも、たとえば安兵衛が玄蕃と飲んでて赤穂浪人の悪口を言ったであるとか、台詞ベースだけで存在しないシーンがいくつかある。最初わたしは適度なランニングタイムにするために相当な削除がなされていると想像した。こうした「削除されたのかな?」と思わせるシチュエーションはほかにも、たとえば安兵衛が玄蕃と飲んでて赤穂浪人の悪口を言ったであるとか、台詞ベースだけで存在しないシーンがいくつかある。最初わたしは適度なランニングタイムにするために相当な削除がなされていると想像した。
ところが、当時のシナリオの決定稿を取り寄せて確認してみると、あにはからんや「宿屋(脚本では”本陣"としてある)の主人にまんまとごまかされる役人」たちがごちそうされるシーンはもともと存在せず、ト書きに「荒賀たち役人、出て行く。少し酒が入っているらしい。」とあるだけ。ついでに言うと、自分を親の仇と付け狙う若者の名前を三平がなぜ知ってたかとか、先述の安兵衛が玄蕃に言う「赤穂浪人の悪口をほざいた」というシーンも、カットされたのではなくそもそも脚本に無い。短いシチュエーションやセリフから「推して知れ」ということだった。
「白紙(しらかみ)の目録を見せられたとき、わたしはピン!ときたんだ。大石さまは、日本中の人間が思わずそうだ!と手を叩くようなことをしようとしておられるのだ。はっきりそんな気がしたんだ」
役人を騙すという暴挙に出た理由をしっかり吐露させているのである。あとで役人に嘘がバレて咎められ、本陣が休業に追い込まれるかもしれないリスクも承知の上で、ちょっとメシア症候群みたいに突っ走り、女房が妊娠してることに希望を託して自我を保っている。それなら納得だ。役人を騙すという暴挙に出た理由をしっかり吐露させているのである。あとで役人に嘘がバレて咎められ、本陣が休業に追い込まれるかもしれないリスクも承知の上で、ちょっとメシア症候群みたいに突っ走り、女房が妊娠してることに希望を託して自我を保っているシーンがちゃんと用意されている。それなら納得だ。
もっと言うとモリシゲと淡路恵子の本陣のシークエンスは、シナリオ上ではラストも飾っている。
夫婦は雲水(行脚の僧)となった寺坂吉右衛門(生きてた!但馬に向かう途中なのである。)を見送ったあと、生まれた赤ん坊に「お前の代になったら、この話は大きな声で話せるようになるぞ」と語りかけている。
シナリオでは序盤…中盤…終盤と、定期的に大衆目線のモリシゲ夫婦が出てくることで、彼らの有用性と時間の経過。また赤穂事件が後世にまで語り継がれる未来について言及して、作品全体を柔らかくまとめる役割がかなり重たく働いているのに、中盤を一部削除してラストをまるまるカットすることで、ひじょうに中途半端な…それどころか違和感まで残すクオリティになってしまっている。 シナリオでは序盤…中盤…終盤と、定期的に大衆代表のモリシゲ夫婦が出てくることで、彼らの有用性と時間の経過。また赤穂事件が後世にまで語り継がれる未来について言及して、作品全体を柔らかくまとめる役割がかなり重たく働いているのに、中盤を一部削除してラストをまるまるカットすることで、ひじょうに中途半端な…それどころか違和感まで残すクオリティになってしまっている。 
ただ、このモリシゲのシーンは、2022年7月。国立映画アーカイブ(長瀬記念ホール ozu)の「東宝の90年 モダンと革新の映画史」で上映されたとき、ほかのおおぜいの観客(東宝映画やスターをこころえていて、金語楼や脱線トリオが出てくるだけで笑える世代)と一緒に見ていると、印象がかなり違った。
「モリシゲが"東下りみたいなことをしている"」ということで用意されたシチュエーションを観客は素直に受け入れ、理屈を超越したなにかが場内で成立していた。これはお茶の間でDVDで見ているだけでは見つからない効果である。」ということで用意されたシチュエーションを映画館では観客は素直に受け入れ、理屈を超越したなにかが場内で成立するのだ。これはお茶の間でDVDで見ているだけでは見つからない効果である。
そうした役者の存在感で削除シーンをカバーする手法もありと言えばありだが、今回のように、映画全体の印象を変える編集は、脚本家にとっては残念なことではなかっただろうか。そうした役者の存在感にまかせて削除シーンをカバーする手法もありと言えばありだが、今回のように、映画全体の印象を変える編集は、脚本家にとっては残念なことではなかっただろうか。
ちなみに、モリシゲが院使の書いたサインを見せて役人を騙すシーンをディスりましたが、旭堂南湖先生の講談「大石東下り」に近衛関白の直筆、というものが権威あるアイテムとして登場してたんで、この映画のシチュエーションもあながち「設定が弱い」などと言いきれない。

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