大石内蔵助
大石内蔵助【おおいし くらのすけ】…忠臣蔵の主人公。
討ち入りのリーダー。絵がうまい。剣術は東軍流。おんな好き。さむがり。
兵庫県、播州赤穂藩・赤穂本社勤務の重役(歌舞伎、講談やドラマでは城代家老、筆頭家老。でも国家老上席。)
行動が不可解なことがあり部下はなにかと「大石様はナニを考えておられるのかっ!」とウワサする。
エピソード
自分ところの殿様(社長)が江戸で上司を刃物で斬りつけたことで会社は倒産。殿様は即日切腹。
どうしようか考えあぐねた結果、仲間と一緒に事件のきっかけになった内匠頭の上司だった人を殺しにいく(刃傷事件からおおよそ1年10ヶ月後)。
もうじゃっかんつっこんだエピソード
元禄14年3月18日23時頃(ほんとは19日午前5時頃?)、内蔵助の屋敷に早駕籠が江戸から宙を飛んできた。乗っていたのは早水藤左衛門と萱野三平。彼らが持ってきたのは江戸城中で殿様が傷害事件を起こしてしまったというニュース。その後続報を原惣右衛門と大石瀬左衛門が持ってきて、とにかくだしぬけに殿様切腹、家は断絶、城地没収、殿様のケンカの相手はおとがめナシと聞いて、城は悲憤慷慨。
内蔵助はまず退職金を藩士達に分配。ここで不忠者はカネを持って抜けた。内蔵助、去る者は追わず。最後の評定の時は士分だけで536人いたのがたった56人になっていた(この数字、講談の数字ですのでフィクションです)。ここで内蔵助は初めて復讐のことを申し出る。
起請文をしたため、一同これに血判の上赤穂城を明け渡した。
5月22日残務が終わった内蔵助はホッとしたのか腕に腫れの病を発病。その後京都山科村に引っ越し。
山科での内蔵助は高利貸しをしたり伏見、墨染、撞木町で太夫、幇間に取り巻かれ遊興三昧をした。周囲は彼のそんな姿を見て「犬侍ちくしょう武士」とあだ名し侮蔑。しまいに内蔵助は「遊女を身請けするから」と言って妻のりくを離別し実家に返す。しかしこれは敵を欺く計略だったのであります。
その後二条寺町のほとり、二文字屋のお軽という娘を妾にする。千坂兵部が放った吉良上杉の間者も「妾まで置くようではもう大丈夫」と安心した。敵の目をあざむくと同時に江戸にいる仲間達、特に急進派の堀部安兵衛たちをもいきりたたせた。
11月に一度江戸下向して安兵衛たちと会い、暫定的に「殿の命日3月に決行」と取り決める。(江戸会議)
しかし翌・元禄15年、約束の期日が過ぎても内蔵助は動かなかった。
これまで殿様の後釜に引っ張り出そうとしてた弟君が7月になって「広島の本家にお預け」と決定。お家再興の望みが絶たれると内蔵助は遂に、京都円山(まるやま)に上京中の安兵衛たちも呼び、あらためて討ち入り決行をメンバーに告げる。(円山会議)
いよいよ10月07日京都出立。垣見五郎兵衛と名を変えて江戸下向。川崎・平間村に到着し、同士が代わる代わる内蔵助を訪ねては密議を重ね、その後は江戸・日本橋、石町三丁目の小山屋弥兵衛の店を借りて潜伏した。
岡野金右衛門が大工の娘にたのんで絵図面を入手したり、大高源五が敵の動静を探るなど、メンバーがそれぞれ情報を入手、遂に討ち入り決行の日を12月14日と決め、事件のきっかけになった殿様の上司だった人を殺しにいく。
呼び名もろもろ
あだ名は「昼行灯(ひるあんどん)」。
呼び名は現役のときは「ご城代」「ご家老」。
浅野本家筋は「くら殿」
会社倒産後は部下たちから「太夫(たゆう)」「大府(たいふ)」「ご頭領」と呼ばれる。
城明け渡しがあんまり無抵抗ですんなりだったことやくるわ通いがすぎた頃になると民衆は「かるいし」「はりぬきいし」「内蔵助ではのうて放蕩(どら)の助じゃ」とあだ名し、歌まで作る「赤穂じゃのうてあほう浪人、大石軽くハリヌキ石〜」。
妓楼(くろう)、廓(くるわ<高級フーゾク施設。伏見の墨染撞木町すみぞめしゅもくまちの萬屋・笹屋藤左衛門、祇園の一力茶屋、井筒。嶋原(島原)の某)では「うきさま」「うきだいじんさま」。
絵を描いたりするときの雅号は「可笑」「眠牛」。
池田久衛門を名乗って京都山科で隠れ住んでいた。
仇討ちを決めて江戸に下ったときは垣見五郎兵衛(とか立花左近)を名乗って宿に泊まった。
川崎のお百姓さんちに泊まった時は家来の瀬尾孫左衛門の名を語った。
仮名手本忠臣蔵では「大星由良助(おおぼしゆらのすけ)」。
俗名「良雄(よしかつ。浪曲ではよしお、と言ってる)」
戒名「忠誠院刃空浄剣居士」。
辞世「あら楽し(楽や) 思いははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」享年45歳