石獅と一呑

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石獅と一呑【せきし と いちどん】……泉岳寺の若いお坊さん。クビを吉良家に返しに行った人達。

吉良邸から泉岳寺に当てた「首」の領収書


討ち入り後、義士たちが泉岳寺に来たときに山門を閉め切り、所化(しょけ:修行中の僧)の一呑がリーダーとなって同輩の石獅(せきし)ら7〜8人で上杉勢が押し寄せてきたときに応戦しようと、興奮して刀を研いだりした。


どうやら誰も襲ってこないので石獅は近所の酒屋に酒を買いに行き、「薬湯の般若湯と申します」なんぞ言って、浪士たちに振る舞ったりした。


そのあと、みんなクビを置いて仙石さんちに行っちゃったんで、役僧の承天と相談をし、重箱に入れて次の日の夜、ふたりで吉良邸に届けた。


応対した左右田孫兵衛はクビがない死体は下賤の変死体と同じだからと、菩提所の萬昌院から受け取りを断られて困ってたので、クビがやってきたことを喜び、クビさえ手に入ればもう用なしの一呑たちをさっさと追い返そうとしたが、石獅たちは領収書を求めた。

孫「かような品に請取を出したおぼえはない」

石「(ムカッ)んじゃ、取られた首を返してもらった試しが、日本開闢以来どこにござった!?」

てんで、前代未聞の「クビの領収書」をしたためました。そのときの領収書は泉岳寺で展示されています。(右上:画像)


以上は講談本のお話だが、実際は上記において「遺体の受け取りを断った」とする萬昌院が動いてくれて寺社奉行が泉岳寺に取次ぎ、それを受けて一呑たちが首を(渋紙で包んで棒に通して)持って行き、吉良家では足軽や中元数十人が丁重に出迎えたという。


受け取りのサインは左右田孫兵衛斎藤宮内であります。(二人とも討ち入りのとき逃げた人)


ちなみに、当時の泉岳寺の和尚は長恩とか酬山とか?